2005 画面から音へ

ジャン=クロード・ルソー、モンテイロの『白雪姫』、ネストラー、ストローブ=ユイレ

ベッドが正面に置かれ、向かって右手から窓の光が差し込んでいる部屋をとらえた固定画面。初老の男が歩いて入ってきてベッドに服と帽子を置き、窓を開くと、外気と騒音が濃密な部屋の空気を破っていきなり侵入してくる。男は画面の外からの音を導き入れていく。テレビをつけるとイタリア国営放送のアナウンサーの声が、それと同時にけたたましいパトカーのサイレンが部屋中に充満し、まるで音でふくれあがらんかに錯覚されるまさにその一瞬に、画面と音は切断され沈黙が、そしてすぐさま音を大気の中へと解放する鮮やかな街の長い遠景へと繋がれていく。

初老の男を自ら演じるジャン=クロード・ルソーは、たったこれだけで映画とは何かを示すことができる驚くべき映像作家なのだ。2004年11月に東京日仏学院で行われた「新しいフランス・ドキュメンタリーのパノラマ」で4本のヴィデオ作品が日本初公開されたルソーは、1948年生まれでフィリップ・ガレル同様NYでアンディ・ウォーホルらアメリカのアンダーグラウンド映画の洗礼を受け、帰国後は8ミリフィルムで一本の作品を数年かけて製作してきたが、1999年に長篇『閉ざされた谷』がベルフォール映画祭で受賞し、初めて世界的に注目される存在となった人である。ジャン=マリー・ストローブにフランス・ファン・デ・スターク、ペーター・ネストラーと並ぶヨーロッパで最も偉大な映画作家の一人だと絶賛され(1)、2001年ヴェネツィア国際映画祭をはじめ各国での回顧上映が催され、以後彼は素材をヴィデオに移して一転矢継ぎ早に作品を作り始める。最初に述べたのは2002年に撮られた傑作短編『ロベルトへの手紙』の冒頭だが、観客はホテルの部屋とそこに侵入してくる光と音とその導き手としての作者自身の軽やかな運動に目と耳を凝らすだけで無類の面白さに心奪われてしまう。据えられただけのキャメラにとらえられた音と運動は、重苦しい監督本人の表情や風体と対照的になぜか楽しい。だがどうしてなのか?

その疑問は韓国の全州映画祭に参加した折に撮られたという『嵐の直前』を見る観客をも襲う。何しろ通り沿いの屋台を低い位置から撮っただけの映像がどうしてこんなに人を魅惑するのか?そこでくつろぐ男たちが去っていくと、測ったように清掃する店の女たちが、さらに遠くから家族連れが、さらにバイクや自動車が、わめくような音とともに、ジャック・タチのコメディの振り付けられたエキストラのようにタイミングよく登場しては去っていくのだ。と言ってもここには特にギャグがあるでもない、そもそも演出されていると言えるかどうかさえわからない。だがこの何の変哲もない映像は、面白すぎる。騒音で充満した映像は突如黒画面に、そして移動中のタクシーの中からフロントグラスの雨を拭うワイパーの動きをとらえた映像に運転手と客の賑やかなやりとりが聴こえてくる。

今年2004年に撮られた『取るに足らぬ慰め』は実生活でゲイであるルソー自身が映画を撮りたいらしい若い男をイタリアのコモ湖に誘い肉体関係を結ぶ、というフィクションが断片的に語られる。観客が目にするのは客を乗せた船の甲板、ベッドに寝ている若い男とそれを演出するルソーの声、ボナールの絵のように部屋の窓を通してとらえられた外で読書する男、バーで映画について話す二人の声と通りの風景・・・である。若い男の顔の映像に別の画面を撮っていた時の二人の声が入ってくるなど、画と音が分離されたり時制が前後したりと奔放な展開。そして5分ほどの『不測の事態』は、若い男から留守電に入ってくる「行けなくなった」というメッセージが黒画面にサウンドで聴こえ、ついで机上に東洋趣味の置き物が並べられ見事な空間を構成している画面が登場する。監督によって机上にめくられた本がパラパラと自然に閉じる。だがこのシンプルな画と音の組み合わせの極みである短編にもまた、ルソーの空間と音への確信が感じられる。まるで「そんな映像に見る価値あるの?」という問いに、画面毎にすぐさま「ある!」と言い放つかのような絶対的な確信が。

そう、ルソーの映画には、我々の日常の世界を作り上げている運動とそれを認知する観客の視聴覚への信頼が貫かれている。あのストローブに「現代の映画を刷新する」と言わしめたフレーミング(2)と、おかしなことにノイズとその消去の運動がジャン=リュック・ゴダールに近いミキシングのセンスは、現実に見、聴こえているはずなのに、それに出会った時には我々が気づくことのない運動の存在を、驚きとともに認知させてくれる。音の衝突、消去、空間への侵入が、何と我々の耳を開き楽しませてくれることか。彼の映画はかつてそれを実現してきた先人たちの偉大な伝統に連なる。ルソーは視覚を誘導しようとする映像ばかり氾濫するこの時代に、ブレッソンが物語映画のなかで発展させた画面外の音をとりあげ、さらに一つの固定画面とそこに出入りする運動と音を組織する作者個人の手さばきそのものがまた無類の面白い被写体であることを示す。その意味でこの映画はいまだかつてありえなかったその手さばきの「ドキュメンタリー」とも言えるのだ。ジャン=クロード・ルソーはまるでペンをとって日記をつけるように飄々と、たったひとりでフランス、いや世界の映画を刷新してのける究極の映像作家なのである。

このルソーの作品群は、ジョアン・セーザル・モンテイロの『白雪姫』とともに、現代の映像における真の主人公とは音であることを告げている。視覚的な運動、画面についてなら誰もがきりなく語ることができる。権力者たちから戦争や天災の犠牲者たちまで、皆が皆視覚的なスペクタクルや誘導についてだけ語り続ける。だがそれらにとって実は準備や待機のときの沈黙はなくてはならないものである。すさまじいエネルギーで充満した沈黙や不穏な音を感知することが現実において多くの人々の自らの身を守ることになるように、現代の映像においても、最も重要なのは沈黙から運動へと移る音をとらえることにある。モンテイロの『白雪姫』は、グリム童話で語られた、娘を毒殺しようとした母とキスによって甦った娘が愛憎の末にこの陰惨な関係のままかろうじて共に生きていこうと決意し、童話で語られたラストへと向かうまでの時間を描くロベルト・ヴァルザーの原作を、黒画面にサウンドのみで語り、幕間のみ画面を挿入するという斬新な手法で描いている。その画面は台詞で語られる地下の墓地であったり青空に雲が流れる運動であり、サルヴァトーレ・シャリーノのフルートやハインツ・ホリガーのオーボエがその視覚的運動をサウンドに転写する。発売されたDVDに含まれるインタビューのなかでプロデューサーのパウロ・ブランコは、モンテイロは「このテクストに見合う画面を作るのは不可能だった」のが黒画面の理由ではないかと語っている。また撮影監督のマリオ・バロッソは、モンテイロとともに先行するサウンドに優位を与える作品であるマルグリット・デュラスやギー・ドゥボールの映画について分析し語り合ったことを証言している。だが『白雪姫』の最もすばらしい瞬間は幕間が終わるやいなやその台詞が語り出されるときの不意をつく突然さの感覚をサウンドの次元で見出すことにある。緩やかな雲と音の点描のリズムが聴く者をつかの間ひたらせとどまらせながら、語り出しなどなかったかのように台詞が始まる一瞬。なるほどそれは『細道』のような同様に寓話を語ってはいるが視覚的優位を示す作品にも本来存在したものだ。それに観客は同様の感覚をラオール・ウォルシュやジャン・ルノワール、ストローブ=ユイレのいくつかの作品に求めることもできるだろう。しかしモンテイロはそこで視線を誘導してしまう画面を取り去ることで、それらの映画に潜在的であった、よりセンシュアルで純粋な、沈黙から言葉への語り出しの瞬間をあらわにすることに成功したのである。だからこの映画はただ画面を黒くぬりつぶせば実現できるものを求めたのではなく、厳格な設計のもとに構築され求められた感覚をもたらすことができたのである。マノエル・デ・オリヴェイラはこの作品をモンテイロの最高傑作だと絶賛し、「真に映画を特徴づけるショットと音の継起」の例としてあげている(3)。もっともモンテイロはこの映画のアイディアをオリヴェイラがかつて「全編が黒の映画を撮りたい」と語ったことから得たものだとし、「この映画は「灰色」だからまだ実現できるよ」との言葉を遺していたが。

では真に映画を特徴づけるものである音をあらわにするために画面は邪魔者なのか。たしかに画面を論じるばかりの視覚優位主義に対して最も鋭く批判を浴びせているのは映画作家たちだ。『労働者たち、農民たち』の公開時に誰も言及することがなかったのは、ストローブ=ユイレがなぜDTSステレオサウンド・システムを使ったのかという点についてである。このモノラルをステレオに変換するシステムによって、鳥、小川、牛、風による木々の葉がたてる周囲の音(『早すぎる、遅すぎる』のように、もちろんそれもまたストローブ=ユイレにとって敬意を払うべき存在なのだ)が『労働者たち、農民たち』の朗読者たちの声を包囲しながら聴こえてくる。そのサウンドが源泉とすべき画面を必要とするのは、冒頭のショットを見ていれば明らかである。森の中をパンするにつれて光が動いていくキャメラの動きに添って振られているであろうマイクによってとらえられる音の動き。そしてそれを聴き取ることができるとき、所詮演劇の中継ではないかというこの映画への批判者たちが、実は本当にこの映画の音を聴いていなかったことを理解することができる。なぜならこの周囲の音に包囲されて聴こえてくる声は映画を通すことでのみ聴こえてくるものだからだ。映画の後半で朗読が農村の困窮からコミューンでの生活へと展開すると、新たな場所と朗読者たちが写し出され、周囲の音も激変する。その衝撃はまさに音における録音と再生と編集という映画特有のプロセスを経ることによって、はじめて見出されるものなのだ。そしてこれが演劇の中継とは遠く離れた映画作品としての『労働者たち、農民たち』を成立させる。つまり観客はこの映画というメディアに記録され上映されてこそ、この音との出会いを経験することができる事実を認識するのだ。そしてこのストローブ=ユイレの作業は、『ルーブル美術館への訪問者』において、ジョアシャン・ガスケのテクストを朗読するジュリー・コルタイのすさまじい息遣いと空間の出会いをとらえた録音に受けつがれる。

ストローブ=ユイレのこうした音と画面の作業は、観客に、今体験しつつある映像はどのように成り立っているのかを我々自身が分析・認識しつつそれを体験することを要求する。こうした経験を通してみた後で、例えばフレデリック・ワイズマンの映画を見てみるなら、そこではある場所のシーンから次の場所のシーンへと移る時、必ず外の道路に走る車と音が現われ、その音に被せられた次の場所の音が遠景と共にフェイドインして聴こえてくることに気づかされる。例えば『メイン州ベルファスト』で頻繁に出てくるキリスト教施設へと画面を重ねながら近づいていく時間。道路を行き交う車の音のなかからやがて賛美歌や室内の人々の声が聴こえてくる。もちろんこうしたことは現実ではありえない。これはもちろん映画を見る人々が場所から場所にごく「自然に」意識を移行するための配慮であろう。アメリカにおける映像の伝統はいかに観客を「今体験しつつある映像はどのように成り立っているか」を意識させることなく操作するところに立脚しており、ワイズマンの映画もその例外でなく、現在も映画からテレビに受け継がれているアメリカの伝統に添って組み立てられていることが察せられる。もちろんここでワイズマンやその伝統を非難しているわけではまったくない。それどころか重ねられた音のオーヴァーラップとそのために費やされた時間、そこに写し出される見事な遠景は、配慮のための意図を超えて達成され、ただ感嘆させられるばかりである。ただ観客のほうは、湾岸戦争以来再び顕著になってきた事態つまりしばしば映像と音が他人を操ろうとする力と結びつこうとするとき、各々が身を守るためにそのメカニズムを冷静に分析し認識する必要があるのだ。

ところで『セザンヌ』『ルーブル美術館への訪問』のストローブ=ユイレにとっての絵画と抵抗する力としての芸術というテーマは、彼らの盟友ペーター・ネストラーのものでもある(4)。ネストラーの近作『逃走』はユダヤ人画家レオポルド・マイヤー/レオ・マイエールが第二次世界対戦中にナチスや密告者たちに追われてドイツから北フランス山地へと逃亡した軌跡を、現在やはり画家として活躍している息子ダニエル・マイヤー(5)と撮影クルーが辿る作品である。作品中には父親が逃亡中に描いた夥しい絵とデッサン、撮影中に息子が描く絵やデッサン、さらには息子が描きつつある姿が挿入される。この描くという行為は手仕事という労働へと結びつく。ネストラーは手仕事という行為を最も肯定的に撮影する偉大な映画作家なのだ。『パカママ、われらが大地』のエクアドルの山村の農婦が泥をこね、磨き上げ、固めて器の形に仕上げていく時、我々がひきつけられるのは、ナチスのプロパガンダ映画が労働を美化するときの過剰で装飾的な照明の光(ハルトムート・ビトムスキーが『ジャーマン・イメージ』で滑稽化しつつ見事に批判している)とは正反対の、農婦が土を踏みならし、磨く時の単調な音の繰り返しと沈黙のリズム、時間と、次の画面があらわれる度に形を変える被写体、そして器の画面のひたすらな静寂への到達である。『北ノルトカロッテ』の山中に住む老婦が木の根から水筒を製作するプロセスも同様だが、ネストラーがこれを映画半ばの山腹での大がかりな石炭採掘現場の騒音と併置する時、その違いがいっそう明確になるだろう。これらの手作業のシーンはひたすら音とそれを導き入れる画面の一体となった塊を接続する時の衝撃に最も敏感な映画作家のみが実現できるものだろう。

ストローブ=ユイレの音への敬意はネストラーとは異なった現われ方となる。例えば『早すぎる、遅すぎる』の「工場の出口」のシーンは、それがリュミエール兄弟の作品と異なるのは音の存在ゆえだが、その持続は、画面の外でも新たな音が起こっている間はむしろカットすることを避けているように聴こえる。道路のすぐ側に据えられたキャメラのフレーム外から交通の音と車や自転車の通る音が起こっている間、まるでその音が世界に生まれて消えていくまでの時間を尊重し迎え入れるかのように、画面は不動のまま構えられ続ける。先述したように、確かにストローブ=ユイレの映画は音と画面を一つの塊と見なし、編集=切断と接着によって映画がいかにして作られているかを観客に知らせてはいるのだが、彼らは切断の衝撃を強調してしまうよりはむしろ持続を望むのだ。『雲から抵抗へ』の馬車上の討論の後も続く轍の音や、『シチリア!』の汽車のコンパートメントの向かい合った二人の男の明らかに異なった時刻に撮られたことをあらわにする顔の震えと振動音の異なった切り返しの画面も、それに続く画面との音の接着の衝撃を強調するよりは、観客が今聴こえている音を充分に見てとる瞬間を探し切断しているように思える。

驚かされるのはいずれの作家ともその作品がいかに製作されているかを観客に見て(聴いて)とらせる想像力に信頼を寄せて働きかけていることである。しかしそれに反して、何と多くの観客がそれに背を向け視覚的な誘導とやかましい音響に身を委せていることだろう。こうしているうちに我々は「メディアを批判する」と言いながら批判すべきメディアと同じくらい扇動的な効果音とキャプションにどっぷりと浸かっているテレビ番組を見ながらうなずいている観客の滑稽きわまりない身振りを笑えない状況にいるのだ。それはアーカイヴの映像を見ながら過去の人々が映像と音に身を委ねていた過ちを笑っている人々が進行中の事態を見てとる困難に鈍感であることと同じくらい笑えない状況である。この状況から距離をとり解体するためには、かつてハルトムート・ビトムスキーがナチスの宣伝映画の声のトーンは同時代のあらゆる国の同種の映画で聴くことができることを指摘した(6)ように、まず音を聴き取り認識し分析することから始めなければならないだろう。。我々の時代の最も優れた映画作家の作品は、興奮と喜びとともに、この聴き取り認識し分析する力を学ぶことに手を貸してくれる。



(1) office.filmfestivalrotterdam.com/2002/en/film/10257.html

(2)Nicole Brenez et Christian Lebrat(dir),Jeune,dure et pure!,Cinematheque Francaise,Paris,2001

(3)「マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画」(エスクァイア マガジン ジャパン)所収「言葉と映画」(谷昌親訳)

(4) ジャン=マリー・ストローブによるテクスト「ペーター・ネストラーを紹介する」から以下を抜粋訳出する。

「私はドイツで撮影していた年長の映画作家たち、例えばフリッツ・ラングやロッセリーニの『不安』を別にすれば、ネストラーが戦後ドイツにおける最も重要な映画作家だと信じている。なぜならまさに、おそらく彼だけが撮影すべきものだけを撮影し、人々を楽しませようなどとしなかったからだ。これは彼の不幸でもあった。ネストラーが「若いドイツ映画」のカタログに掲載されなかった理由について「我々は娯楽映画を作る人が欲しいんです」と言われたからだ。
一つのフォルムの上に、現実に消されたり放置されたままのものを刻みつけたり探究するときに、単に見るものを撮影し描く人=りんごを描くこと以外はせず、人々が「あなたが描いたのはりんごじゃない」と言ったセザンヌのような人は、映画の世界ではいつも本当に稀なのだ。けしてありえないもの、または「そうあることが許されない」以上のものに映画がなるという事実にとって、そんな人はひとつの恵みだ。何が映画を売るのかとはまた別の話だが、常にりんご以上になるものが、見捨てられた映画の構造を救う必要を与えてくれる。
その上ネストラーは詩的なもの以上の映画を創造した。これは"Am Siel"(『運河』1962年、13min)から始まったが、それはまだ私たちの『マホルカームフ』やルドルフ・トーメの、美しくこれもまた私が常に若いドイツ映画の一つの重要な区切りと考えている"Versohnung"(『宥和』1964年、14min)が作られる前のことだった。"Am Siel"がマンハイム映画祭の選定委員会に見せられた時、こう言われた。「これはだめだ。運河は何も語っていないじゃないか。」そして"Aufsaetze"(コンポジション、1963年、11min)はこう言われた。「子供をこんなふうに語らせてはいけない。」で、"Muehlheim"(『ルール地方』1964年、16min)が作られた時、何がしかが、特にフィルムクリティーク誌の人々が書いた。"Muelheim"は例えネストラーが溝口健二を見ていなかったとしても、私にとって「溝口的」映画だ。私はこう言いたい。例えば溝口の『山椒太夫』は映画のうちで最も力強く、また最も深い意味でマルクス主義的で、何となく言ってみれば神の慈悲についての映画だ。"Muelheim"もそうだが、しかし対極にある映画でもある。この映画が拒否されたのは子供達がいかに生き、大人になる前に社会に囚われているのかを見せているからだ。
そしてネストラーは2本の長篇を撮った。"Oedenwaldstetten"(『エーデンワルドシュテッテン地方』1964年、36min)と"Arbeiterclub in Sheiffield"(『シェフィールドの労働者クラブ』1965年、41min)だ。これらはもはやテレビでさえ放映されなかった。そして"Von Griechnland"(『ギリシャにて』1968年、28分)は本当に重要な、美学的テロリスト的映画で、私にとって常に重要以上のものだ。人々は当時ネストラーには政治的オブセッションがあると非難していたが、彼には何の政治的なものはなかった。そこにあったのは単にギリシャの出来事だったのだ。そこで天才的だったのは、同時録音の中に群集の叫ぶスローガンがなかったことだ。私に言わせると、それは直接録音におけるほとんど先駆者的な意味を持つのだ。天才的な直感がそこに存在していて、スローガンは彼のコメンタリーの中で言われるだけだ。ネストラーは人々が叫んでいたことをコメントで繰り返したのだ。そしてネストラーは"Im Ruhrgebiet"(『ルール地方にて』1967年、13分)を撮った。これについてはブレヒトの述べていることを引用しよう。「多くの明晰さのもとに真実を穿つこと、明確さを持ち一般的なものと唯一のものを結びつけること、大いなるプロセスのうちに特別なことを定めること、これがリアリストの芸術なのだ。・・・」(Filmcritica, n. 227, 1972)

(5)www.mailletarte.com

(6)der Standard.at、17/18.10.2000

(2005.04.01)


©Akasaka Daisuke

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