1976年以来私は重要であり本物の映画作家フランス・ファン・デ・スタークの作品を発見してきた。私たちはジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレのローマの家で初めて会った。お互い歩いて5分しか離れていない場所に住んでるにもかかわらずである!映画を作る傍らフランスはグラフィック・アーティストでもある。そちらのほうでは(それが最初の仕事だったのだが)政府が彼を援助し、画家や彫刻家同様に年間12000ギルダーを得ていたがそこから彼は9000ギルダーを自分の映画に使っていた。
ヨハン「スピノザについてもっと話してくれる?」
フランス「彼はレンズ磨きだった。じっさいそれが彼の仕事だった。一日中彼はレンズ磨きで忙しかった。さらに言ってみれば彼は汎神論者だ。つまり彼は世界を超越した神のことは想像せず、世界と神を同一視していた。彼はユダヤ人共同体を追われた。彼らはスピノザを無神論者だと思ったからだ。そのことからたぶん、私は若い頃からこの男に興味があったんだ。ともかく彼は生に執着していた。彼の思考の方法にあるある種の厳しさ、リズムの中にあるパターン、それは特殊なものだ。そして私の目から見たこのリズムは、また私の映画の中にもある。彼の主要な問題は、人はどのようにして幸福になるのか?だ。口実として形成される、このことはスピノザにとってすべてについてのことだ。しかし、たとえ彼が結論としての答えを出すことができないことを自分自身知っていたとしても、絶えずこれを自問することによってスピノザ自身だけが幸福になれることが明白なんだ。」
ヨハン「彼は幸福になることに倫理的な価値を与えなかった?今日我々が緊急に自問しているのは、もし人は幸福を追求しなければならないならどのようにできるのかということだ。」
フランス「そうだね、スピノザにとって、私にとっての幸福は、言わば、他人と関係がある。それは利己主義的だが同時に社会的で、なぜなら実際的に人々は結びついているからだ。これは彼を明白な状況に置く、今私が言おうとしているよりももっと明白でさえある。人の喜びは他人の喜びに加わるということだ。逆もまた真なりだけど。憎しみが勝る時、人の喜びは他人の悲しみである。」
ヨハン「そうだね。でもより大きな社会的対立を俎上に乗せると、どうかな?例えば、先週私たちはアパルトヘイト反対運動の集会に行った。そこで、南アフリカとアンゴラからのスポークスマンが闘争を呼びかけるためにそこにいた。そこで一人が言ったのは、平和へのロードマップは憎しみの道でしかないということだ。つまり両方の多くの人々が殺されることなしに戦うことは出来ない、と。こんな状況下では正しい道も恥ずべきものになる、と。」
フランス「そうだね、でも忘れちゃいけないのは南アフリカでこの憎しみを先導しているのはアパルトヘイトのシステムを始めた人々だということだ。そしてそれはスピノザの視点から見て人間的ではない、彼にとって人間的な側面は自由の衝動と融合するからだ。黒人たちは自由な行動から遠ざけられている、そして彼らがアパルトヘイトのシステムを動かそうとする時、この場合彼らの闘争には合理的基盤があるんだ。彼らには憎しみからの行動は必要ない、憎しみは余計なものなんだ。」
ヨハン「それはちょっとナイーブだと思わない?」
フランス「そうかもしれない、でも結局それは意味を形づくるんだ。もし人がこのシステムを攻撃するなら、彼は憎しみに後押しされることはない。例えばヴェトナムの場合、アメリカ人たちのほうがヴェトナム人よりも憎しみを持って戦っていると思う・・・。ぼくはできるかぎりスピノザの思考に近くあろうとしている・・・ぼくはまだ自己保持の衝動、行動の自由は最も強力な動機だと信じている。」
ヨハン「ぼくが意図的にこの話題に振ろうとしているのは、きみの映画が例え歴史的なテクストをベースにしているにしても、現在の状況について多くのことを言おうとしていると感じるからだ。」
フランス「スピノザの映画は『ユーベルト・コルネリス・ポートの10の詩』(1976)と同様に17世紀に書かれたテクストをベースにしている。ドイツの二流作家フリードリヒ・グリーゼが1932年に「私の故郷、私の国」というテクストを書いたんだが、私は(1976年に撮った自分の映画)『私の故郷、私の国』については、作家の個性ではなく表面的なテクストについてのみ興味があった。そう、過去に書かれたテクストは、現在の撮影隊によって録音されて現在に移される。知っての通り、現在は映画の中ではすでに過去だ。俳優の身振りや天候に、撮影に技術的な意味を適用するなら・・・多くの条件に拠るいかなる現在もすでにそこにあるんだ。映画制作の主要な動機は、そのときこうなる;歴史的な埃に埋もれていても、現在の状況に十分抵抗するほど強力なものはどれほどあるのか?ポートについての映画で私は自然の風景を常に操作することによってより際立ちさえするこの側面をとらえた。例えば二本の柱の間に大きなシートがあって、それは塗装され風に揺らいでいる。だから人はこう言えるんだ、この風の揺らぎが現在だ、と。今日風はこんなふうに吹いているんだ、と。
スピノザのテクストに戻ると、私はカメラの前で読まれるテクストを音楽のスコアのようにデザインした。映画が始まると、人はこれらのテクストが現在の世界の音にどのくらい抵抗できるのかを見ることが出来るんだ。映画のサウンドで人は撮影のロケ場所の音をすべて聴くことができる。車、人々、鳥、飛行機、風、テクストの破壊としての朗読を。」
ヨハン「きみは特に音に興味があるの?」
フランス「いやそうでもない。でも音は表現の側面のひとつだ。」
ヨハン「きみは音楽のスコアのように、と言ったよね?」
フランス「スピノザが自分の哲学を定理と証明を使った数学的な方法でモデル化したように、この映画も幾何学的な方法で構築されている。私は特定の方法でスピノザの命題を組み立てた。あるテクストは2,3回繰り返される。だいたい20人の俳優がいて、全部素人で、前もって出番の割合を見積もっていた。こんなふうに精密に考えた、ナンバー1の俳優は10回登場するが、ナンバー19の俳優は一回しか登場しない・・・人々の数はフレームのヴァリエーションで異なる。同じテクストが時には1人の人に、別の時には5、6人の時に読まれる。なぜならテクストは常にある社会的な環境で読まれ、ダイアローグの一種として・・・つまりほとんどダイアローグなんだ。」
ヨハン「それはテクストの割り振りについてもそうじゃない?きみは厳格なナンバーを超えてそれを共有させる。」
フランス「そのとおり。ほとんど対話であるおかげで新たな意味が追加されうる。同じテキストが別の人によって口にされ、もう一人はより多くの洞察力を持って表現され、より多くの問題を持っているか、または他の人よりそれについてより多いものを感じる。それは意味が絶えず変化しているからだ。見ての通り、これは音楽のスコアのようなテクストへの処置でもやらなくてはならない。テクストや俳優やロケーションの割り振りがその中で決まる。そこには幸いにも編集段階で素材を組み立てる十分な可能性がある。」
ヨハン「もちろんきみは編集の最終段階でフレームの組み合わせを決定できる。さまざまなレベルでこのすべての混乱を整理してうまく機能させる。そして考え出して詰め込んだすべては撮影の最後の段階で役者に配られるから、彼らはきみのコントロールを超えて、予期せぬ反応や状況の変化にさらされる(きみはコントロールしたくないとも言うし、これはきみが素人や自然なやり方で演技する人々と仕事をする理論的根拠にもなっている)。」
フランス「映画の中で重要なものを得るのはスピノザが意図したものとは全く違ったことだ。これは思考の方法や訓練の意味や、言わばある種の活動に没頭することを見せることについての映画だ。」
ヨハン「スピノザ映画できみが自分で出ているシーンに感動したんだが、きみは短いテクストを読むときに数多く間違えていた。たとえそれが映画の中で最も大きなクローズアップだとしても、その短さや危うさゆえに、控えめなものになっている。他の俳優たちが避けられなかった間違いを、きみもしている。この意味でぼくは、きみの映画は実際非常に野蛮だと思う。きみは間違いを(被写体として)扱っている。ポートについての映画できみはある程度それを方法化した。時には俳優ドナルド・デ・マーカスは「いや私はこれを正しく行っていない」と言い、すぐその後で同じショットでやり直している。きみは逆にこれらの瞬間をカットしていない。それらは映画の中で目立つんだ。この視点から『私の故郷』はさらに極論を行っている。俳優の一人は時々台詞を忘れてフレームの外に出て行ってしまう、(そしてたぶん脚本を読み直して)出た場所に戻って演技を続けるんだ。これらすべてに失敗のストレスはない、ショットはずっと続けられカットされることはない。」
フランス「そうだね・・・でもここでそれを「間違い」と呼ぶことさえが間違いなんだ。まずはじめに、詩とかいわゆる哲学的なテクストのような歴史的生産物がある、でも撮影の瞬間に俳優がそれを表現することはできない、彼自身の現実のほうがより強力だからだ。だからここで俳優のミスを残すのはさらしものにすることではなく、撮影の瞬間を妨げる俳優や環境の中の演技の力を活動させはじめることだ。しかしながらある別の瞬間に、歴史的なものと現実的なものとが完全に合体し、並外れた瞬間になるんだ。」
ヨハン「その瞬間にテクストは全く生きているんだ。私の見方ではきみの映画はある方向で時間=空間を想像させることに導く。これは時間の流れの認識だが、今は空間における拡張として理解されうる。この概念は、画面を編集するきみの方法で可視化される。非常に長い時間のショットをつなぐタフで正確なジャンプカット、時間とアクションの場所への敬意を伴ったテクストのあやうさ、ロケ場所の音、個人、グループ、集団や、彼らが舞台となる場所に立ったり座ったり寝たりする仕方、その瞬間のシーンの光、しばしば絵画の技法を反映するイメージの構成、そこにシーツがあり、それは塗られているか、風にそよいでいるかどうか。それらはすべて時間と空間の特性であり、いっしょになって映画すべてを詩的なものに変えていく。他方、きみの作業スタイルはあまりに普通の映画製作から離れているので、きみの作品もまた抵抗の要素を例示するのではないだろうか?」
フランス「そうだね、私の視点から言うと、映画作家は自分が革命的であっても革命的な映画を作ろうとすべきじゃない、人は自分からある距離をとって革命的な視点を保ちつつ、自分の映画を作るべきだ。私が「人は自分自身の映画を作るべきだ」と言うと、いかにも紋切型にとられるかも知れない。でもまた・・革命を起こしたいなら、できるかぎり多くの人々に利益をもたらさなくてはならない。」
ヨハン「でも何がきみをこの特殊な方法で作業することを促しているのかな?きみを駆り立てているものとは?ぼくの場合、よく撮影中は、怒りに駆られることがある。」
フランス「ぼくにこう言わせてくれ。ぼくは怒りに駆られることはない。なぜスピノザやポートを選んだのか?実際彼らは孤独だったとしても、彼ら自身を自分のいる環境に注意を向けていた。そして思うにそれはぼくのテーマでもある。ポートやスピノザにとってと同様ある種の欲望がぼくをとらえている。例えそう言うのが恥ずかしいとしてもね。いいだろう、それが適切な語なんだ。欲望、ぼくはそれに突き動かされる、怒りではなく、非常に強力な感情だ。この欲望は、人が個人的に向き合うコミュニケーションの失敗や問題による孤独と共生の間の緊張から起こるんだ。スピノザやポートをとらえたのと同じものがぼくをとらえるんだ。」
ヨハン「ではなぜこの欲望を表現するためにこれらのテクストを選んだのかな?」
フランス「そうだね、きみは直接と間接を接続するプロセスのうちにこの欲望を見つけることができる。欲望が意味するのは、かなり離れた距離を間接的にコミュニケーションする方法なんだ。例えば人が誰かにブーケか何かを送るとすると、それがその人の欲望を表現する間接的な方法なんだ。そんなやり方で、欲望は究極に達する。欲望の最も難しく緊密な部分は、最も間接的なんだ。そんなわけでぼくはこれらのテクストを選んだんだ。それがぼくに作業する機会を与えてくれるから。」
(Skoop紙、1976年12月号、禁転載)
以下の会話は11月14日日曜日の美しい秋の午後に行われた。我々は特に彼のスピノザの映画『バールーフ・デ・スピノザの仕事 1632-1677』(1973)について話したが、加えて彼自身の一般的な製作の動機における見識も与えてくれた。我々がふれた4分の非常に素晴らしい『Sonata』(1975)についても、残りの彼の作品についてもすぐ研究されることが望まれる。