アメリカ映画(3)東への(ロッセリーニへの)道

椅子と照明に囲まれた部屋。ソファに向かい合って画面向かって右側にブロンドの長髪に黒い女物の下着を着た男、左に太ったスーツの黒人の男が向かい合って座っている。黒人の男は懸命に仕事である電話帳広告のセールスについて確認をとろうとしゃべりまくり、一方女装男はどうやらこの黒人の男が相手を間違えていることに気づいていながらも適応に最後まで話を聞こうとしているようだ。やがて必要なことを聞いてしまった黒人は挨拶をして部屋を出ようとして書類を忘れたことに気づき戻りかけると、聞き手の女装男が眠りこけているのを見つける。黒人が立ち去った後で女装男の手から名刺が舞い落ちる。

このシーンで、手前と奥を家具に囲まれてまるで人間が小さく見える構図とわざわざかつてのソヴィカラーに似せて着色したかのような青緑色の強い画面から、ガス・ヴァン・サントの『ラストデイズ』がアレクサンドル・ソクーロフのとりわけ『静かなる一頁』の強い影響下にあることを見てとることができる。それは、『ジェリー』『エレファント』と本作は確かに作家本人がタル・ベーラとシャンタル・アッケルマンの影響を受けたと言っているにもかかわらず明白なことである。逐一数え上げるなら、主人公ブレイク(マイケル・ピット)がひとり徘徊する後姿を追う移動撮影、彼を探しに来た探偵と男から逃れて水辺に腰を下ろして佇む遠景、中腰の異様な姿勢から長時間静止しそのまま床に這い進むブレイクをとらえたショット、そして彼の体を発見する庭師の視線からとらえられた二重露出による霊体・・・。

ゴダールの『映画史』にも挿入され、レオス・カラックスが2005年ウィーンのレトロスペクティヴの白紙委任状でもこの映画を選んでいるように、確かにまだソ連崩壊前80年代終わりのソクーロフが西側の映画作家たちにとってもはや古典と言える存在になってしまったとはいえ、一体そこまで映像をコピーしてどうなんだという感想さえ浮かんでくるほどだから、ジョナサン・ローゼンバウムのようにこの映画を一思いに斬って捨ててしまう人がいてもそれはそれで理解できる(1)。だが、もしかするとマリリン・モンローの輪郭を正確になぞりながらその筆跡が新たな何かを付け加えたようなウォーホルの肖像画のようにヒッチコックの映画を「なぞった」『サイコ』は、こうした作品を作るためのある種の準備だったのかもしれない。この『ラストデイズ』という映画が面白いのは、カート・コバーンの死にアイディアを得た最もアメリカ的なロックスターの最期を、最もロシア的な映像を使って描写しようとする意志ゆえである。その最も美しいシーンはブレイクが引き蘢る山荘の窓を通して演奏が僅かに覗く箇所である。次第にズームバックしていく画面の動きに従ってギターが奏でられ、そしてヴォーカルが、そしてさらにドラムスが乱入してくるソニック・ユースによる曲が画面を満たし、続いて静けさのなか、そのソニック・ユースのメンバー、キム・ゴードン扮する女性がクロースアップで登場する(2)。山荘にやってくる他の登場人物がブレイクを自分の為に利用しようとするのとは異なり、彼女だけがただブレイクを解放しようとして出て行くよう促すこの短いシーンは感動的だ。

ところでこの映画は一つの時間軸がブレイクを追う視点と山荘にやって来る人々の視点から眺められた複数の部分から成り立つ、つまり一つの視点から描かれた時間は後に別角度から反復されながら進行する。屋敷から人々が去って行きブレイクが一人だけになった時彼の人生は終わるわけだ。この『エレファント』でも使われた「複数の視点から眺められた一つの時間」はガス・ヴァン・サント自身タル・ベーラの『サタンタンゴ』から借用した手法だと言っている。またシリアルやパスタを調理するシーンはアッケルマンの『ジャンヌ・ディールマン』から得たアイディアだとも言っている。だがタル・ベーラやアッケルマンの映画において、また『シテール島への船出』以後のアンゲロプロスも徐々にそうなってしまったのだが、すべては完璧にコントロールされているが故に、そこで見えてくるものはただただ作家の権力と優位性のみである。なるほどその完璧さを実現したのだから素晴らしいと言えば言えるが、完璧さに自足してしまっているが故に、自らを支えているシステムの権力の上に立っているのは常に「すべてを操作しているのは私である」という退屈な主張しか見えなくなっている。例えば『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の人々がやってくる店の長いシーンや冒頭や人々が暴徒と化すシーンでは、振り付けられた人々やキャメラの動きが、長さ故にそのシーン自体の実現を危険に陥れるリスクを観客に感じさせる瞬間がまったくないのだ。それに対して、優れた作家は、かつてロブ・トレジェンザの『Talking to Strangers』を論じた折にヒッチコックについて述べたように、あるいはドライヤーのように、自らの拠り所であるシステムの限界を暴く「リスク」を明らかにすることによって観客を手に汗握らせるのである。

面白いことに、ガス・ヴァン・サントは『ジェリー』公開時のインタビューで、ヒッチコックは『ロープ』でワンシーン・ワンショットを使ったとしても諸々の理由から因習を破ってはいない、タル・ベーラの映画では人の周りを回るショットはただそのためだけにあり「ただ長いショットは長く、ショットとアクションとストーリーが溶け合っているようであり」その点が新しいのだ、と言っている(3)。だが今見ると、先述のように、『ロープ』はその諸々の理由と因習にとらえられたシステムの限界を露呈させた歴史的なドキュメントであるがゆえに偉大な作品だということがわかる。
かつてアンドレ・バザンが「映画とは何か」の中で、依拠すべき原則として「ある出来事の本質が、行為の二つあるいはそれ以上の要素の同時的な提示を必要とするときは、モンタージュは禁じられる」(4)と書き、ロバート・フラハティの『極北のナヌーク』のアザラシとそれに銛を打ち込もうと待機するエスキモーをともにおさめた画面が「同じショットの中で示されないなどということは、とても考えられない」のに対して、ヒッチコックの『ロープ』は「その芸術的な重要性がどんなものであれ、この映画では古典的なデクパージュが行われていたとさえ私は言おう」と述べたとき、だがヒッチコックの負っていた「リスク」は、バザンにはおそらく、見過ごされていたことだろう。

というのは、同じく「映画とは何か」所収の「映像言語の進化」に読まれるとおり、当時のバザンにとって1939年以前の古典的デクパージュによる映画に対して、真実性を保証する「空間的単一性」を尊重するオーソン・ウェルズやウィリアム・ワイラーの「空間的深さ」は「モンタージュを自らの造形要素の一つとして取り込んでいる」がゆえに新しく、擁護しなければならないものだったからである。それがジャン=リュック・ゴダールに「古典的デクパージュの擁護と顕揚」という反論を書かせ、またジョン・フォードやジャック・ベッケルがバザンによってウィリアム・ワイラーを擁護するために言わば「古典的デクパージュを用いた映画」の典型的な例として否定的に取り上げられてしまっているのは周知のとおりだ。だが、ワイラーの空間的単一性による演出について、例えば『月光の女』で自分が射殺した情人に宛てた誘いの手紙が発見されたと聞かされ失神して床に倒れ込むベティ・ディヴィスをとらえる画面、あるいは『偽りの花園』で心臓発作を起こした夫のハーバート・マーシャルが椅子に座ったまま彼を見捨てる妻のベティ・ディヴィスの背後で階段に崩れ落ちる画面(バザンの記述とは違い、固定画面ではなくわずかな前進移動撮影である)は、それ自体完璧であっても、あまりにも入念に準備した空間的同一性のうちにとらえられ、かえってヒッチコックのような「綱渡り」のリスクが感じられない。つまり動きを空間的単一性におさめることとは一つの「冒険」であるはずなのに、画面は倒れ込んだり崩れ落ちたりする動きを「完璧に予期している」からである。

また、『我等の生涯の最良の年』から例にとられているシーン、ホーギー・カーマイケルの経営するバーで、ハロルド・ラッセルの義手によるピアノ演奏を聴いているフレドリック・マーチに見届けられながらダナ・アンドリュースがテレサ・ライトに別れの電話をかけるシーンで、バザンの述べているように、グレッグ・トーランドによるワイラーのパンフォーカスは観客に視線を注ぐ対象の自由な選択を与えるように見えるものの、実際には、マーチとアンドリュースの二人のみをとらえた画面の挿入によって前景のピアノ演奏に対する遠景の電話の優位が示されてしまっている。同様のことはやはりバザンによって分析されている、ラッセルの結婚式シーンが実はアンドリュースとライトが再会するための場所になるラストシーンにも言える。つまり、バザンによって同様に擁護されたジャン・ルノワールとは全く異なり、ワイラーの映画において「空間的単一性」はむしろ観客を操作するための「リスク回避」であり、ヒエラルキーを決定するための手段なのである。それに対して『我等の生涯の最良の年』に比較されたベッケルの『幸福の設計』が、デクパージュにおいて、一つのシーンを一続きのアクションとしていかに構築するかという徹底した連続性への執着ゆえに(例えば最後に殴り合いで頭を打ったアントワーヌが宝くじをどこに置いたのかを思い出すまでの過程は途切れることのないアクションとして描かれている)、現在において「空間的単一性」における現前主義を批判する視点をもたらすと言えるのではないか。1950年当時、ロケ撮影が多く、登場人物がまるで走っているかのようなリズムと演出に追いつく撮影と編集のために古典的デクパージュが必要不可欠だったと推測される『幸福の設計』において(そしてその後のベッケルの作品においても)連続性を維持する困難さは見過ごされていたのである。

また同じテクストにおいてフラハティ『ナヌーク』の最も感動的な映像の真の目標としてバザンに指摘される「ナヌークとあざらしとの関係、つまり待機の時間の実際の長さ」は、ベッケルの場合と異なりバザン自身擁護者の先鋒として戦ったロベルト・ロッセリーニの劇映画について指摘されてもよかったはずだ。しかし、『ストロンボリ』のマグロ漁以後、ロッセリーニがこの「待機の時間」を『ヨーロッパ一九五一年』や『イタリア旅行』のように思考や愛の顕現についても描いたとき、それら思考や愛は、ドキュメンタリーにおける狩りや動物の捕食とは異なり、いつ起こるのかが予測できないがゆえに、「空間的単一性」にとどまることはできなかったのである。もちろんその先駆者はバザンがフラハティ、ムルナウと並んで表現主義とモンタージュに反対している例として取り上げているが具体的なディテールには言及していないエリッヒ・フォン・シュトロハイムである。『グリード』で歯科医ギブソン・ゴーランドがザス・ピッツを治療しようとして魅入られるときの両者のクローズアップや『結婚行進曲』の最後の豪雨の中でのフェイ・レイが愛するシュトロハイム大尉夫妻を見送る光景が執拗に延々と続くとき、観客はすべてのディテール以上に経過する時間をも被写体として意識する。そのモンタージュの執拗さは、無声映画時代の当時おそらく他の方法がなかったからであり、ロッセリーニもまた「モンタージュなしではシュトロハイムの映画は存在しえない」と言っている(5)が、そこにもまた手段の歴史的限界の記録がある。

ところで、ここでは50年後の今も重要なバザンのテクストをあらためて批判しようというわけでは決してない。ただ、バザンのテクストが書かれた1950年代当時と異なり、蔓延する映像がワンショットで描かれるスペクタクルを「衝撃映像」の羅列として毎日のワイドショーの穴埋めに価値下落させる一方でCG等の加工技術が高度の発展を遂げて真実の保証を脅かしている今、バザンあるいはゴダールの当時のテクストにおいて指摘されずにいたベッケルやロッセリーニの映画において潜在的だったものが、映像に日々影響されながら生きている21世紀の我々にとって、かつてない重要性を帯びて浮上してきていると言いたいのである。翻って、特にドキュメンタリーというジャンルに自足している映画ほど、そうした映像の過剰と真実の保証の喪失によって根拠を失いつつあることに無自覚であるため、率先して情報操作の手先になってしまう危険性があることに留意すべきだろう。すでにバザンは1946年に、戦前の「美しい国日本」のイメージをあっさり「猿の惑星」のイメージに移行させた『われわれはなぜ戦うか』について、「そのメカニズムの主要な原動力は、人間精神の未来にとって特に危険なものであるようにわたしには思われる」と指摘していたが、それは決してプロパガンダというジャンルに限ったことではない。

ガス・ヴァン・サントのヒッチコックに対する言葉には、こうした連続性と映像の現在についての歴史的認識が欠けている。特に非難するわけではないが、例えばそのことが『ジェリー』という魅力的な映画の限界を言い表わしているように思える。到底アメリカとは思えない風景の混入によって何処でもない場所を構築するためのアルゼンチンでの撮影や、時間の感覚を失わせる微速度撮影や特殊効果の技術は、かえって映画それ自体の「外」、つまり映画が歴史的限界と接する機会を隠蔽することになってしまうからだ。だが『ジェリー』の魅力は、むしろケイシー・アフレックが巨岩の上から降りられなくなる滑稽なシーンの何の変哲もない遠景のショットに漂う二人の俳優の解放された雰囲気のような、完璧さを目指さないディテールにこそある。必ずしも『エレファント』も含む3部作に濃厚なゲイ・セクシュアリティにすべてを還元することはできない、タル・ベーラやアッケルマンの映画の権力性から離れた不完全さを残すことで、ガス・ヴァン・サントはかろうじて"外"と接するように感じられる。『ラストデイズ』のマイケル・ピットの演奏シーンや先述したキム・ゴードンの素人じみた台詞まわしにしてもそうだろう。さらに『ラストデイズ』における主人公の最期の視線の先にあるものは、フレームの「外」にあり、決してとらえられず、観客はそれが何だったかを知ることができない。そう、ここでガス・ヴァン・サントもまた、メディアである映画の限界とともにロベルト・ロッセリーニの流れをくむ現代の作家の作品へと合流する。

例えば候孝賢の『百年恋歌』の冒頭のエピソード、1966年のビリヤード場で球を突く男女のシーンで、キャメラは構え、突き、球の行く先と交代するふたりの姿に視線を通わせ、恋に落ちるスー・チーとチャン・チェンを交互に一人づつフレームに入れ、一方でキャメラはゲームの展開を決して観客に知らせることはない。つまりここではゲームに興じる時間を共有するカップルの身体だけを観察し続けることが重要なのである。ここで候孝賢もまたロッセリーニの流れにつらなる。他方、候にとっての現代は、ビリヤード場や、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を無声映画へと深化させた1911年のエピソード(それはヴィスコンティが『イノセント』で、あるいはコッポラが『ゴッドファーザーPART3』のシチリアで展開する後半で、イタリア映画の祖先ジョヴァンニ・パストローネを再発見していた遡行を思い出させる)に登場する遊郭のような場所を喪失した世界として描き出される。2005年のエピソードでは、そうした共有の場を失ったスー・チーは、ただ恋人の遺書メールを読むわずかな時間にのみ哀切の情をあらわにする顔をとらえられるしかない。『百年恋歌』とは、候孝賢にとって、現代において描くべき時と場所を見出すことの困難そのものを示している映画であり、当然ここでも時間と感情の露呈する瞬間の結びつきはロッセリーニ的なものである。つまり生誕100年を祝われるか否かなどという以前に、こうした現役の映画作家たちが命脈とするのは依然としてロッセリーニの映画であることが容易に指摘できるのである。

そしてガス・ヴァン・サント同様に、テレンス・マリックの『ニュー・ワールド』もまたあるソ連の映画作家に結びつけられる。ネイティヴ・アメリカンの王女ポカホンタスの伝説を描くこの映画は、マリックの前作『シン・レッド・ライン』同様、登場人物の内面独白であるヴァージニア・ウルフ的な複数のモノローグが語りの導き手となっている。まず緑の反映する水面が映り、精霊を呼ぶポカホンタスを演じるクォリアンカ・キルヒャーの声が聞こえる。ポカホンタスのさまざまな手振り、水の中に差し伸べようとする、あるいは手をつないで、さらには空に向かって両手を掲げるというこの映画で何度も目にすることになるさまざまな身振りが現れる。この冒頭部分で誰でもすぐにゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』を思い出すことだろうが、もちろん過去のゴダールによるアレクサンドル・ドヴジェンコ夫人ユーリャ・ソーンツェワへの度々の言及を覚えているなら、この緑や木々の映像が映画的地層を経たものであることが感じられるのである。ついで海上のイギリス船が画面に写し出されると、コリン・ファレル扮するジョン・スミスが、ポカホンタスの手に呼応するかのように船底の暗がりから縛られているその手をかざして現れる。そして先住民たちが岸辺で見守るさなかに上陸し、船長クリストファー・プラマーが上陸後の計画を話しだすと、それにのせて短い上陸の画面が積み重ねられる。自然光や水が横溢している画と、それら人物の声の登場の関係はというと、声が続く間に画面上の展開は断片化され、スキップされ、急激に圧縮されて進むように見える。そのとき観客は荒々しい映像よりも声とサウンドトラックに反復されるワーグナーの「ラインの黄金」やモーツァルトのピアノ曲のフレーズや静寂に導かれているのである。

この点でマリックはアラン・レネを参照しているように見える。ゴダールの場合のように人物に無関係なテクストや複数の声が同時にサウンドに登場するわけではなく、手持ちやステディカムの移動撮影による映像やジャンプカットが多用されているとは言え、レネの「ずっと動き続けているのに止まっている印象を与える映画」での台詞が続く間に変わり続ける背景としての映像との関係のように、オフ画面でのモノローグが登場人物の心理や画面を完全に離れてしまうことはない。その意味でこの映画は依然として古めかしくはあるのだが、終わり近く、夫とともに渡英するために船に乗り込んだポカホンタス/レベッカは自分と同じネイティヴ・アメリカンの男と出会う。すでに白人社会で暮らし洋服を着ている女と異なり、男はネイティヴの衣装のままである。そして彼が『シャイニング』より『去年マリエンバートで』を連想させる英国庭園に現れて不思議そうに辺りを見回しながら歩むシーンでは、物語上の展開としてまったく不自然ではないにも関わらず、突如、とりわけハリウッド映画として稀な何かがあらわになっているように感じられる。それはこの英国庭園とネイティヴ・アメリカンという組み合わせが奇異だという意味の不自然さではない。現代風に設えられたポカホンタスの衣装とメイクで整えられた肌、刀を振るう戦闘シーンでまったくと言っていいほど飛び散らない血液、といったいくつかの要素によって準備され、徐々に取り払われつつあった虚構のヴェールがここで剥がされたということだろうか。夫が息子に手紙を読む声によってポカホンタスの死が告げられ、画面はすでに無人となった彼女の部屋を映し出した後、突然一人のネイティヴ・アメリカンの男が玄関先から外へと走って行く。あれは何だったのか?そして死んだはずのポカホンタスは英国での衣装のまま、何かから解き放たれたかのように飛び跳ね、側転する。だがそれらは果たしていつのことだったのか?そもそもこの時代の女性がこの衣装で側転を行うことがありえたのだろうか?等々・・・

こうした時への疑いをくぐり抜けた後で最後に再び現れる河の流れは、映画で描かれた時代(フィクション)からフィクションの「外」へと流れ込んでいるように見える。そこでまたしても我々はドヴジェンコの『ズヴェニゴーラ』の時を超える老人のことをを思い出す。あの老人は、太古の彼方から現代都市までの時を超え、ニュース映画と寓話の境を超えて金山をひたすら掘りながら、時と虚構を超えるめまいをすでに予告していた。マリックがそれを参照したのかどうかは定かでない。しかしそこではアメリカ映画には稀な、ガス・ヴァン・サントと同様に、「外」を指し示す欲望がある。もちろんこれでアメリカ映画の大勢が変化しつつあるなどという気は毛頭ない。例えば最近新作を撮ったモンテ・ヘルマンはしばしばそうした「外」を提示してきた数少ないアメリカ映画作家だ(『射撃』の主人公と狙撃者が同じ俳優の反転したイメージだったり、『断絶』の最後で画面自体が燃えてしまったり、また『イグアナ』で特に超能力があるわけでもない主人公が人々を支配できるのは、それがキャメラの前の演劇であることを前提にしている等々)が、そのためにハリウッドからの追放や無理解を招いている。しかし従来アメリカがフィクションの「外」を示すよりは自らのフィクションに他者を取り込み支配するためにイメージを普及させ使ってきた国であることを知っているなら、これら国内での些細な抵抗や変化に興味を抱かずにはいられないのもまた当然なのである。

一方クリント・イーストウッドは、戦争後遺症のインディアン兵士(演じている俳優はどこか『夕陽に向って走れ」のロバート・ブレイクを思わせる)がアメリカ政府に英雄として利用されアル中死する悲惨な物語を語る『父親たちの星条旗』において、テレンス・マリックが『シン・レッド・ライン』でいかに詩的であろうとも虚構の内部にとどまっていたモノローグを、兵士の視点からの回想とそれを取材した兵士の息子のモノローグの二重の声のレヴェルにおき、さらにクレジットタイトルでモデルとなった兵士たちの写真と現在の硫黄島に立てられた記念碑のショットを示すことで入念に虚構化するが、それは逆に、1ヶ月で100人の米兵が死んでいる現在を射程においてのことである。この映画の導き手となるのはルーズヴェルトの死を告げるラジオ放送から主人公たちを戦場に引き戻す「イギー!」「味方に撃たれた!」の叫びのように徹底して声であり、イーストウッド映画のトレードマークである濃い影と夜の闇は、たんなる映像の美しさだけでなく、爆風とともに吹っ飛ぶ兵士の体やバラバラになった遺体を覆い、可視的な範囲を限ることで観客の視線を操作する(これは意図的に兵士たちを英雄にするメディア操作と同じく自らが操作しつつあることを示している)。その点でやはりイラク戦争を批判したジョー・ダンテの快作『ゾンビの帰還』よりずっと複雑ではある。例えば戦費を調達するために、主人公たちが味方に誤射で殺された友人たちの記憶を呼び起こしながらハリボテの硫黄島へ登頂するヒーローを演じなければならない悲惨きわまりないシーンは、この夜の闇とそれを照らす光がなければならなかっただろう。この映画は、20年以上前に「今のカラー撮影ときたら四百万ドルも役者に払っておいて誰がしゃべっているのかわからないぐらい暗くして撮っても平気だという感じだ(笑)」(6)と批判した『市民ケーン』のオーソン・ウェルズを話法の点で参照しつつ画面で裏切るような映画である。だが『父親たちの星条旗』は、スペクタクルを旨とするハリウッド映画の領域でなおメディア(自己)批判足らんとする方法と稀な映画作家の存在を再認識させる傑作である。

(1)http://www.chicagoreader.com/movies/archives/2005/0805/050812.html

(2)この映画のサウンド設計については以下を参照。
http://www.fipresci.org/undercurrent/issue_0106/shatz_klinger.htm

(3)http://www.filmmakermagazine.com/winter2002/features/sands_time.php

(4)アンドレ・バザン「映画とは何か」第2巻 映像言語の問題」小海永二訳、美術出版社。以下参照部分は同巻。

(5)「ロッセリーニ 私の方法」アドリアーノ・アプラ編 西村安広訳、フィルムアート社、p139

(6)Troisieme entretien,in Cahiers du Cinema(Hors Serie No.12)邦訳「語るオーソン・ウェルズ」聞き手ビル・クローン、鈴木圭介訳 シネアスト2(青土社)p96

(2006.11.05)


©Akasaka Daisuke

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