『カップルの解剖学』

リュック・ムレとアントニエッタ・ピゾルノの『カップルの解剖学』Anatomie d'un rapport(1975)の英語題サブタイトルは"Further than SEX"となっている。これは『愛のコリーダ』と言うより映画中でも名前が言及されるマルコ・フェレーリがこの後に撮ることになる『最後の女』L'Ultima donna(1976)の結末を先回りしてクサしながら作ったような映画だ。ムレ自身が演じる売れない映画作家の恋人(ラチェル・ケステルベール)が「いっそのことチンチン切っちゃえば」と軽く言い放つように、フェレーリの映画ではオルネラ・ムーティとのセックスがうまくいかないドパルデューが電ノコで自らの一物を切断するに至るのだが、本当にそれしかないのか?ムレはその痛い事態を回避すべく必死に全裸で女とディスカッションし、自転車で走りまくり(「俺は直進が好きだ」と言っている)、女をすんごい狭いアパートから連れ出して田舎の広い部屋のベッドで性交に成功し、有頂天になるのだが、その結果「あんただけが気持ちよくなってるだけじゃん」と言われるだけだ。おまけにその一発で女は妊娠してロンドンで堕胎しようとするし、男のほうは映画が売れず金欠状態に・・・。

映画作家としては『ブリジットとブリジット』Brigitte et Brigitte(1966)をゴダールに「真に革命的な映画だ」と絶賛され、ストローブに「『密輸業者たち』Les Contrebandieres(1967)は並外れた映画、『ビリー・ザ・キッドの冒険』Une Aventure de Billy le Kid(1971)はジャン=ピエール・レオーの傑作であり、フランスのシュルレアリスム映画の稀な一本で、ムレはブニュエルとタチの両方を継承する男だ」と言われたムレは、ユスターシュやガレルの映画と変わらぬ設定と規模から出発するもののその風土からは遠く離れ、まるでイタリアンSEXコメディを思わせるセンスで面白おかしく描いてしまう。まずなによりこのウルフマンジャック(古っ)みたいなジーンズにヒゲのおっさんであるムレ本人が見ていてやたらおかしいのだ。特に映画が売れずロングショットでトボトボ歩いているうちに抱えているフィルム缶を落としてしまう想像のシーンが最高に笑える。かと思うと女のモノローグが聞こえてくると誰もいないアパートの開け放たれた窓をゆっくりとパンしていくだけの美しいカットは、これがまぎれもなくマルグリット・デュラス(ムレが製作した『ナタリー・グランジェ』のポスターが部屋の壁に貼ってある)同様に優れた現代映画であることをさりげなく示す。

結局男に信じられないほどバカバカしい経緯で大金が転がり込み、一件落着と思いきややっぱりSEXはうまくいかない・・・という映画を作りたいんだが、と女優と妻を懸命に説得するムレの画面(この画面が徐々に映画中に挿入されてくる編集はリヴェットの『セリーヌとジュリーは船で行く』の幻想シーンの挿入に似ている)と劇中の二人がカットバックされる。「それだけの理由じゃねぇ・・・」とまったりと応答するカミさんが実は主導権を握りつつあったようだ。劇中の夫の指示にも「なんでカットするのよ?」とか言って笑わせる。そう、この映画は笑わせつつ作家個人の、劇映画の、フレームの、あらゆる"外"を目指すことによって希有なまでに開放的なのだ。Further than・・・・

(2005.07.28)


©Akasaka Daisuke

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