アルゼンチン映画の秘宮vol.5 グスタボ・フォンタン

本日はお寒い中こんな大勢来ていただきましてどうもありがとうございます。「アルゼンチン映画の秘宮」は今年(2014)の2月に特集上映を行いまして、自分としてはこれで一区切りかなと考えていたんですが、今回ちょっと突発的な事情で急遽行うことになりまして、というのはアルゼンチン某所から予算が出るような話をされたものですから、勿体ないから何かを上映しようということになりまして、新しい映画を上映しようと行動を起こしたんですが、そのあるはずのお金がなかったと言われまして(苦笑)、普通だったら上がった梯子を外されたら止めるといのがごく普通の反応なんですが、20年近くこういう上映をやっておりますと余計な知恵というものがついてしまうもので、やめるくらいならもうちょっと何かができないかなと考えてしまいまして、「ゼロに近い予算で何かできないか」というふうに考えた結果ですね、まあグスタボ・フォンタン監督に関してはもともとこの2本を上映しようと考えていたわけではなく、劇映画とドキュメンタリーを一本づつやろうかと考えていたわけですが、彼は1960年生まれで短編中編5本、長編7本撮っているんですね。1992年くらいから短編を、長編は2002年から撮り始めまして、最新作は『顔』El rostro になるわけですが、フォンタンという人は一作ごとにかなり変わった作風の映画を撮っている人なんですね。予算がいきなりなくなってしまったものですから、そのまま上映できるような映画をやるしかないなと方向転換しまして、そうなるとなるべく字幕を付けなくていいような映画、言葉の少ない映画を選ばなくてはいけなくなったわけですね。そして長編にしても短い作品を選んでですね、少ない予算で何とか上映許可していただけないかとお願いをしましたら、まああちらも日本で自分の映画を上映するのは初めてでして、小津安二郎を初め日本の映画を非常に尊敬してますのでぜひ、と言ってもらいまして、今回の2本を上映できることになったわけです。

それで先程述べましたがグスタボ・フォンタンはいろいろな作風で映画を撮っているんですね。最初の長編は2002年に『陽が沈む場所』というのを撮っていまして、見ているとアメリカのインディペンデント映画かな、という感じの映画です。先程の映画同様に手持ちのカメラを使っていて、老人と孫くらい年が離れた娘のラブストーリーを作っていまして、ダルデンヌ兄弟のような感触もある映画を作ってます。これがそこそこ評判になったらしく、次の作品『樹』を撮ることになります。これが2006年で、前の作品から結構間が空いているんですが、この映画から先程見ていただいた『ラ・カサ/家』までの3本が監督自身の実家を舞台にした連作を撮っています。そのかたわら、2008年に次に見ていただきます『底の見えない川』という作品を作るんですが、この映画から川をテーマにした連作を作っていまして、今国際映画祭でかかっている『顔』がその第2本目になります。この川の連作は後2本作ることになるそうです。で、今日見ていただくのは家をテーマにした連作の第3作目と川をテーマにした連作の第1作目ということになります。その間に彼はもう1本劇映画を撮っていまして、2008年の『母』という映画なんですが、これは先程お話した『陽が沈む場所』と違っていまして、場所をほとんど一つの家に限定していまして、といってもいくつか移動しているんですが、アル中の母親と息子、彼を演じているのがフォンタン監督の実の息子なんですが、ほとんど彼らと息子の恋人の女性が主要登場人物の少人数の劇映画になってまして、そこに自然のカット、川や木や山などいろんなカットが入ってきまして、ほとんどドキュメンタリーの撮り方なんですが、彼の他の映画と離れているわけではなく、このあたりから、ドキュメンタリーやフィクションどちらの領域も超えたような映画を作っています。

で、フォンタン監督の映画の中心になってくるのは、具体的には先程言いましたように『ラ・カサ/家』だったら自分のというか実家だったわけですが、それと『底の見えない川』のほうはフアン・ラウレンティノ・オルティスの詩を映画化するというわけなんですが、詩というものは当然言葉なわけで、例え動機になっていても、そのかわりになるものを現実世界に見つけるわけにはいかないわけで、その結果どうなったかはこれから御覧いただくわけなんですが、このオルティスは1896~1998年で亡くなっていまして、作家フアン=ホセ・サエールに言わせるとアルゼンチンでは20世紀最大の詩人だということですが・・・フアン=ホセ・サエールは『孤児』という作品が日本語訳で出たばかりです。このサエールという人も映画と関わりが深くて、「アルゼンチン映画の秘宮」でも紹介したウーゴ・サンチャゴ監督が亡命後にパリで撮った『土星の舗道』というタイトルの映画の脚本を書いています。ウーゴ・サンチャゴ監督が『はみだした男』の後に撮った作品です。フアン=ホセ・サエールはロブ=グリエとも親しかったり、映画批評もたくさん書いています。またラファエル・フィリペッリ監督のサエールについての映画もあります。グスタボ・フォンタン監督の次回作はこのサエールの原作を下敷きにした作品になるそうです(『El limonero real』)。フォンタン自身も文学を志していて、詩集を出したりしていますが、私自身は読むことができていませんが、大学時代に文学の方に進むはずが映画の方に、というよくあるパターンですが、業界で撮らずに自主制作で撮るようになったわけです。1990年代でちょうどビデオからデジタルへの移行の時代で、フィルム全盛時代ですとラテンアメリカではこういうことが難しかっただろうと思いますが、フォンタン監督は1960年生まれなんですが、同年代の作家より1980年代生まれの今アルゼンチンで注目されている若い世代のほうに感性的には近いんじゃないかと思えます。作風に関しても、それ以前の世代はアルゼンチンでも撮影所の世代で、プログラムピクチャーを作る産業も存在している国だからそちらの方に行ってもおかしくなかったのにそうしなかったこと、1990年代末から新しいアルゼンチン映画の世代が国際的に注目されてくるわけですが、むしろこの新しい世代の方にギリギリ近いかな、と。それにフォンタン自身大学教授で教えていますので、そちらの方が主業で、産業で生活していないことも自由な作風につながっているのかもしれません。

それで作品自体ですが、家をテーマにしたシリーズの3作目が今回見ていただいた『ラ・カサ/家』で、家を取り壊すプロセスを描いていますが、片方ではちょっとファンタジーといいますか、かつてそこに住んでいた家族の面影が出てくる、後半の方は壊してしまうんですが、音についても完全にリアルな音ではないように聴こえます。この映画の前の作品は、やはりこの家を舞台にした『四月のエレジー』というタイトルの作品でして、監督の曾祖父が詩人で、生前に発表されなかった詩集が倉庫から発見されるという設定から始まって、その詩集をどうするのかという話になるのですが、これがフィクションかドキュメンタリーかよくわからないように描いています。そして監督自身と撮影クルーが登場して、この映画を作っていくプロセス自体もカメラに収められていて、なおかつ息子さんが「自分が撮った」って言ってますけども本当のところどうかよくわからない、視点自体を曖昧にするというか、複数性を取り込んで映画を作っています。ですから作品自体も監督のコントロールの下に作った作品なのかどうか、わからないようになっています。もちろんそれ自体が偽装で、そうやって作っているんだよ、と観客に見せることでその点も非決定にしているのかもしれません。それと複数のクオリティの映像もあって、完成された映像ではない、一方ではデジタルのクリアな映像があって、もう一つは息子が撮ったというどこにでもあるカメラの粗い映像を混合させることで「質」自体を問う映像作品になっています。これはこれで冒険的な作品になっています。この前に撮った『樹』というほうは、35ミリの端正な映像で、ホセ・ルイス・ゲリンがやはり一軒の家を撮った『影の列車』やビクトル・エリセの作品を思わせるところがある作品です。長い間かけて撮ったパーソナルな作品であはあったけれど、結構ロードショーで人が来たらしく、そのおかげで冒険的な連作を撮れるようになったという理由もあります。それとこれらスペインの作家たちとアルゼンチンの作家とは御承知のとおりファシズム、軍政の恐怖の影の中で詩的な映像を作ってくぐり抜けてきたという点でつながりが考えられます。それとフォンタン自身が影響を受けた重要な作家たちとして挙げているのがタルコフスキーやソクーロフといったソ連の作家たちで、これも考えてみるとソ連の圧政下で作られてきた詩的映像の流れとも言えるわけです。

先程言ったように『母』という映画は劇映画にドキュメンタリーの映像を組み込んでくる作品ですが、先程の『四月のエレジー』とは違ってほとんど固定画面で撮っていまして、音のいじり方は今日見ていただいた作品よりは少ないかなと思うんですが、音を画面に従属させるようなことはやっていませんで、できるだけ開放的な、といいますか、いじっていること自体はわかるんですが、それ自体が効果を生むようなことはやっていません。固定画面に人の出し入れの演出が見られましてブレッソン的だったり、装置自体はタルコフスキーの『鏡』っぽかったりするところがあります。同じ家ではないですが、今日の『ラ・カサ/家』でも天井が落ちてくるところで『鏡』を思い出した方もいるかもしれません。1980年代までの映画の影響とみられるような箇所は他にもあって、例えば母親が電車に乗っているところで、ゴダールの1980年代の映画を思い出したりするかもしれません。それを考えてみますと、リサンドロ・アロンソを2月に上映した時にも言ったんですが、フォンタンも時代的に1980年代の映画を見て育ったことが現れているように思うんですが、ただ1980年代には顕在化していなかったメディアの問題、自分が扱っている境界線はどこなのか、という問題ですが、これはフォンタンの映画により多く出てきているのではないかと思います。『底の見えない川』にはピンボケ映像がたくさん出てきますが、スタン・ブラッケージとかその種の実験映画を見慣れている方もおられるかと思いますが、フォンタン本人があるインタビューで言っているのは、「ピンボケ映像をテストした」と言うことです。詩的映像を具現化する技法というものでもあるんですが、もう一つ『底の見えない川』のラストのように、朗読が流れてピンボケ映像になるわけですが、そこで我々観客は映像というものはカメラで作られているんだ、ということを意識するわけなんですね。そういう意味で映像メディアというものの機能を知らせる姿勢が感じられます。『底の見えない川』に出てくる詩人オルティスの黒白映像は、『終わりのない開放』というフアン=ホセ・ゴラスレタという人が黒白8mmで撮った作品の抜粋で、それをコラージュして使うというのも、『四月のエレジー』でも述べましたが、他人の映像、視点を使うというファウンド・フッテージの映画、別の時代に使うことによって出てくる歴史的なコンテクストのズレを露呈することによって自らのメディア性や歴史性を明らかにしてくるわけです。

それで、音と自然との出会いといいますか、それは最近のインディペンデント映画のすぐれた作家たちの共通課題だと思うんですね。もちろんジャン=リュック・ゴダールなんか1960年代からいまだにそれをやっていまして、最新作の『さらば、愛の言葉よ』で最新の3Dデジタルでもやっていて頭が下がる思いがしますけれども、フォンタンの映画、ラテンアメリカの新しい作家、チリやアルゼンチン、ヨーロッパですとガリシアやカタロニアの作家たちにも共通の主題になってきています。チリならホセ・ルイス・セプルベダやテオ・クールト、ホセ・ルイス・トレス・レイバ、ガリシアならロイス・パティーニョのロングショットだけで撮られた『コスタ・ダ・モルテ』、エロイ・エンシソの『アリアノ人』など、35mmの時代には高価すぎて映画が作れなかった地方の人々の、デジタル時代になって撮ることができるようになった新しい作家の作品が数多く登場してきてスペイン語周辺圏が面白くなってきています。既成のプログラム・ピクチャーを生産する国のシステム、映画館にかけられてテレビに下ろされて最終的にDVDショップに行くというような映画、ではない映画を作るような、目に見えない大きな運動として感じられなくもないような現状になってきている、それは興味深いことで、その中でフォンタンの映画を見ますと、産業の中で撮っておらず、現在の問題を先取りしつつ作っているということで、『顔』なんかはスペイン語圏で注目されて多くの批評が書かれています。日本ではほとんど情報が入ってこないので実感はないと思うんですが、それを知らせる意味ではこの「アルゼンチン映画の秘宮」というイベントもそれなりの意義があるのかなと思うところもありました。

(2014年12月17日にアップリンク・ファクトリーで行ったレクチャーに加筆訂正した)


©Akasaka Daisuke

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