『ある日,突然』インタビュー

以前紹介したルクレチア・マルテルの『沼地という名の町』や今年のイタリア映画祭で上映されたマルコ・ベキス『子供たち』に続いてアルゼンチン映画ニューウェーヴの一人であるディエゴ・レルマン監督『ある日、突然。』が公開される。ソ連消滅10余年マオとレーニンと呼ばれる女の子二人がデブの少女マルシアを拉致し、タクシーを奪って放浪した後で伯母の家に向かい、人間らしい関係を見い出すが・・・セサル・アイラの短編小説を映画化した、国際映画市場で今もっとも注目されている国の一つであるアルゼンチンから来た1976年生まれの若い映画作家の声を聞いた。

-この『ある日、突然。』でまず面白かったのはその構成です。最初マオとレーニンのコンビとマルシアの二つに別れていた映画が一つになり、ブランカの家につくと各人のパートに再び分かれ、彼らの以前と違ったキャラクターが見えてきます。最初からこうしようと考えていたんですか?

「最初シナリオの段階から考えていました。このストーリーに求められていたのは彼らの現在を進行形で描くということでした。彼らは予想できない未来に向かっていくということです。そして彼らの状況に応じた決断というものを描くストーリーがその構成を求めていたと思います。」 

  -面白いのは、その描写に対位法みたいなものがありますよね。マオたちは活動的で撮影も手持ちや移動が多い。対するマルシアはじっとしてキャメラも移動しません。ブランカの家に着くとレーニンはやさしくなり、マルシアはマオに対して反抗します。レズだったマオには青年フェリペとの男女の関係が現れます・・・。

「そうですね。その違いを撮影で際立たせようという意図はありました。彼女たち自身パーソナリティを探しているんです。それが彼女たちの動きを通して描かれていると思います。おそらくアイデンティティの模索をしているのかもしれません。最初は彼女たちはステレオタイプに見えるんですが、話が進むにつれてレズとか太った子のようなステレオタイプの向こうにあるものをエピソードで追っていくことができます。」

-周りの登場人物もとても印象的ですね。彼女たちを乗せる車を運転している、水族館の話をする女性や、あるいはブランカの家の間借り人のデリアなど、彼らの人物背景はよくわからないのですが・・・。

「あの車の中のシーンは自分にはとても重要でした。役造りの段階であの女優だけに「車には銃があるから、君は3人を脅すこともできるんだ」と言っておいたんです。そのことで彼女の緊張感がより凝縮されたものになったと思います。その後映画がブエノスアイレスのインディペンデント映画祭に出たとき、審査員のエドガルド・コザリンスキー(『ジャン・コクトー 知られざる男の自画像』監督)が「あのシーンはよかったよ。僕は絶対彼女は車に銃を持っていると思ってたんだ」と言ってくれたんです。それは私と彼女の努力が伝わったという意味でうれしいことでした。」

「まずデリアだけでなく全部の人物の架空のバイオグラフィーを書きました。デリアは少し謎めいた人物で、他の人物との関係も謎めいたものに仕上げたかったんです。デリアはスポットライトが当たらないと目立たない存在で、マオだけとはちょっとウマが合わない。ブランカは彼女の母の代わりです。彼らの関係を俳優たちに深く理解してもらい、そしてその痕跡を残さないように消していく作業をしました。そしてある視線によって対象についてどう考えているのかが映画の中でわかるように仕上げていったのです。」

-一つのシーンを演劇のように通しでリハーサルをしたのですか?

「そうしたシーンもあります。撮影まで2ヶ月入念に準備する時間があったのですが、ホン読み、俳優たちとの個別の役造り、彼らからコメントをもらったり、さまざまな作業がありました。」

-俳優の演技の連続性を損なわないように編集していますよね。

「それは我々が求めていたものです。プロットが非常に込み入った映画なのでなおのこと自然な演技が必要でした。それがわかっていただければ嬉しいですね。この映画は撮影を少しづつ続けてきたのですが、完成の見通しがたたなかったんです。予算もノーバジェット、撮影終了後に映像を繋いだだけのVHSテープをリサ・スタンチックに送ったところポストプロダクションに加わってくれてやっと完成したんです。ですから振り返る余裕はなかったんです。」

-黒白で、白がとんでしまった60年代のような映像が魅力的です。

「それもシナリオが求めていたものです。コントラストが必要だという意味でです。個人的にも粒子の荒い黒白が好きなんです。」

-日本ではまだアルゼンチン映画を見ることはなかなか難しいのですが、最近の若いアルゼンチン映画作家の国際的な活躍は本当にめざましいですね。何か理由が?

「国際的には突然こうなったように思うかも知れませんがやはり段階を経たものです。1994年に映画法の改正があって国家の補助が打ち出されました。その前後に大学や映画学校での教育が盛んになりましたし、ブエノスアイレスの映画祭の出現と若い映画作家へのサポートも大きいんです。これらのおかげでリスクを負いながらも社会に信念を提案しようという若い映画作家たちが現れてきて、自分のような者も陽の目を見ることができたんだと思います。」

(通訳:金谷重朗 5月28日 渋谷 東急エクセルホテルにて)

(初出 月刊ラティーナ2004年7月号)


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