『結婚演出家』とあれこれ

マルコ・ベロッキオの『結婚演出家』は、もうすでに出身地のボッビオのワークショップで学生たちと3年越しで撮ったヴィデオ作品『姉妹』Sorelleがあるから新作ではない(この作品は2006年のローマ映画祭に出品され、ベルトルッチと公開対談した際に絶賛された)。セルジョ・カステリットが『母の微笑』に続いてベロッキオの自伝的存在を演じるが、ルー・カステルに比べて狂気じみた展開により滑稽さが加わったテイストの自由奔放さが面白過ぎる。掴みのカステリット扮する監督の娘の奇妙な結婚式に響く音楽の手拍子からして異様だが、続く映画のオーディション?がまたなぜかわからない緊迫感が漲っている。どうやらマンゾーニの『いいなずけ』というより挿入されるマリオ・カメリーニの映画版(1941)のリメイクのための女優探しらしいのだが、何やらただならぬ雰囲気から突如女が台詞を唱え始めたり、『肉体の悪魔』ばりに「フェラチオを自分から申し出ろ」(笑)という助手がいたり、どういうわけか警官が入ってきたりするが、ささやき声で交わされる芝居が例えばデヴィッド・リンチと共通するとはいえ『マルホランド・ドライブ』とは違って簡素さが支配するだけに見事である。映画はシチリアの海岸に佇むカステリットにまたしても結婚したカップルのヴィデオの演出を頼む男が現れる・・・というところから、その男の雇用主である公爵サミー・フレイの娘の結婚式の演出の依頼へと続いて、いつものアレというか幻想シーンやら銃撃戦やらがあって、やっぱりの展開となっていく。



途中同僚の監督ズマンマ(ジャンニ・カヴィーナ)が自分は死んだことにして賞を穫ろうとする挿話がおかしいが、ベロッキオはズマンマはカステリット演じるエリカのネガ=分身であると言い、イタリアの批評にはピランデルロの小説「生きていたパスカル」からの引用とされ、一方リュック・ムレは自分の新作Le prestige de la mort(ムレ自身が演じる監督が死んだことにして栄誉を得ようとするとちょうどその時友人の監督ゴダールが死んでしまうらしい)同様にセシル・B・デミルの『嘆きの合掌』の引用だ、と主張しているとかいろいろ言われているが、何よりささやきから怒声までをとらえる録音、ほとんど真っ暗な夜の中の物悲しい中年男ふたりをつけていくステディカムの追跡(『乳母』以来味をしめた感じだ)、そしてフェリーニ的になるところをやたら花火の爆発音だけが耳に残る過剰演出がギリギリで映画になってしまうところがすばらしいのだ。しばしば日本の学生の撮った作品を見ていてつまらないのは、こうした写らないかもしれない危険を冒して撮った画面がほとんどないからである(逆にジャン・ルノワールの戦前の映画はそんなカットばかりだ)。
「イタリアでは若い人たちが出てきても考え方が古いままだ。新しい考え方を追求できないから「文化」という古いものに捕らえられてしまう。古い人々は年とって穏やかになった頃に受賞して死んで讃えられて終わりだ」というインタヴュー(1)にも伺える逸脱ぶりにもかかわらず、これを200以上のスクリーン(オルミの新作 Centochiodiもほぼ同数だ)で封切ってしまい興収ベストテンに入れてしまうのだから凄いというか・・・むしろ「これじゃ日本公開は無理だろう」なんてハナから言ってる周囲の声がおかしいのである。もっともパオロ・ベンヴェヌーティのプッチーニ生誕150年を祝う無声映画(!)の企画は文化省に拒否され、激怒した監督が大臣に出した抗議声明をブログで公開(2)、アドリアーノ・アプラやクリスティナ・コメンチーニ(「スターを使えばいい」のコメントが馬鹿すぎて笑える)の書き込みを読むとイタリアもパラダイスなどでないことは確かだ。モンテイロの『白雪姫』と同じくメディアとしての映画の画面と音の関係をあらためて問う(つまりは観客批判となる)このロッセリーニ最後の直弟子の企画に日本から出資したら面白いと思うのだが。



その他アルメニア政府から援助を受けアルタヴァスト・ペレシャンが15年来の企画に着手するとか、ハルトムート・ビトムスキーが新作『塵』Dustを撮ったとか、ダニエル・ユイレ亡き後のストローブが今年も5月末にブーティ劇場の上演の演出を行う予定(3)とか、そのストローブがリヴェットの新作は『修道女』に並ぶ傑作だと言ったとか、オリヴェイラが今撮影中のアメリカロケの新作に続いてエッサ・デ・ケイロス原作の"Singularidades de uma rapariga loira" を撮るとか、個別の明るいニュースはいくらでもあるが、ビクトル・エリセの『マルメロの陽光』以後の流れを汲むスペイン映画や帰国したラウル・ルイスと出会った若いチリ映画とかアルゼンチン映画を含めて今一番面白いのがイベロアメリカ圏だと思う。ただ個別の上映はあってもロシア(余談だが久しく日本上映されていないが毎年撮っているウクライナのムラートワを含めた女性作家たちの特集を組むべきだと思う)並みに日本語情報が少ないこの広大な地域がハリウッドやヨーロッパの下請けから脱却しつつむしろ影響を与える存在になっているこの時期に、批評的パースペクティヴを描けずプレゼン上映ができないのは当然まともなキュレーターが不在だからだが、映画雑誌や文芸誌を眺めてもこうした情報が出ていないのには呆れるしかない。あらためて終わってしまったなの感、である。

(1)http://www.cinemadelsilenzio.it/index.php?id=2656&mod=interview

(2)http://micromega.repubblica.it/micromega/2006/08/paolo_benvenuti.html

(3)http://www.teatrodibuti.it/piccoli_fuochi_07/ginocchio.htm

(2007.5.4)

©Akasaka Daisuke

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