トランス&トラッシュ ブラジル映画の運動


2004年の2月に亡くなったフランスの映画作家ジャン・ルーシュは後のヌーヴェルヴァーグに最も影響を与えた作家のひとりとして有名だが、彼はかつてシネ・トランス(cine-trance)という極めて重要な概念を提唱した。それはフィクション、ドキュメンタリーにかかわらず映画撮影にかかわるすべての人、さらに映像を見る者までが祭儀に参加するごとく熱中し、場合によっては狂気に陥るような状況を名づけたものである。ルーシュの自作『気狂い祭司たち』(『メートル・フ』、1953〜54)とマルセル・グリオールのシュルレアリスムの影響に由来するとされるこの概念は、映像を製作し、それを見る人間のプリミティヴな喜びを言い表わすものであるが、同時にこれは、今やイメージの過剰状況にある時代を生き、映像による情報操作や煽動にさらされている現代の我々にとって非常に危険な状況を示唆しているとも言える。つまりこの場合祭儀とは一種のフィクションであり、ルーシュ自身その後の作品でフィクション=劇映画作品へと次第に傾斜していったのだが、一方スペクタクル化を極める映像一般の現状と言えば、現実の戦争や殺戮をフィクションとして取り込み、リサイクルし、ときには観客のはずの人々をそのサイクルに巻き込むまでに至っているからだ。多くの人々がパゾリーニの『ソドムの市』を思い出したらしいイラク・アブグレイヴ刑務所におけるおぞましい虐待写真において、パゾリーニの映画=サドのテクストに基づいた演劇のキャメラ前の「祭儀」の上演が、現実の虐待行為としてカメラ前で繰り返されるとき、映画と虐待の二つのイメージの差異は、やがて時の経過とともにそれを見る我々個人の視線と知性に委ねられるものであるほかなくなるだろう。つまり虐待画像はそれがいつか使用され消費市場と結びつくときまたもや「スペクタクルな映像」として巨額の金を産んでしまうだろう。つまり観客が生きる楽しみを得るために別の観客やその愛する者の惨たらしい死の映像をすぐさま糧にすることが可能な時代に突入しているのである。それは恐ろしくもバカバカしいことではあるが、我々は映像を禁止するという時代遅れな行為によってではなく、いかにしてそのスペクタクルが製作・流通されるのかを分析することによってのみ、かろうじてそのおぞましい状況から抜け出す手段を知ることができる時代に生きているのである。

ところでブラジルの映画作家グラウベル・ローシャこそ、このシネ・トランスという映画製作のプリミティヴな狂気じみた喜びを最も体現し擁護していた映画作家のひとりであろう。ローシャは20世紀前半のブラジル映画史において、同時代の作家ウンベルト・マウロや亡命者アルベルト・カヴァルカンティよりも、異端とされるマリオ・ペイショトの唯一の作品であるサイレント映画『限界』Limite(1933)を高く評価している。一艘の舟で港を漕ぎ出した三人の男女の過去を回想する物語を描く『限界』は当時の世界映画を見渡すならジャン・ヴィゴやエイゼンシュテイン、マノエル・デ・オリヴェイラの同時代の作品にも見られる、反復的なモンタージュ、水への偏愛、仰角撮影の多用などいわゆるモダニズムやアヴァンギャルドからの影響が色濃く、しかも技術的には洗練されていない。プロフェッショナルな作品にはないこの未熟さ、プリミティヴさ、荒々しさは、洗練を生涯拒み16ミリ手持ちキャメラの製作を続けたルーシュの作品と交感しながらローシャの作品の特徴として見出されるものだ。

ローシャの代表作の一つ『狂乱の大地』Terra em Transe(1966)はとある架空の国エルドラドで二人の候補が争う大統領選挙の背後で片方のプロパガンダ活動を行うジャーナリストの挫折を描いた映画だが、キャメラ=観客に向かってのアジテーション演劇としての演技、幻想をカットバックする荒々しいモンタージュやジャンプカットや手持ちキャメラの移動撮影は、マウロやカヴァルカンティの洗練よりも美学的にはペイショトの作品を受け継いでいると言えるだろう。ローシャは当時1950年代にイギリスで活躍していたカヴァルカンティを所長に迎えたにもかかわらず、ヴェラクルス・スタジオの作品群を「我々の映画ではない」と批判していた。共産主義者だったカヴァルカンティがブラジルの右傾化を敏感に感じたためかヨーロッパに再亡命した後、ローシャが大きな影響を受けたブレヒトと共同で『プンチラ親方と下僕マッティ』を映画化したのは皮肉ではある。

ローシャは軍事政権成立後、渡欧し製作を続け、イタリアでカルメロ・ベーネと出会う。彼は南イタリアのレッチェの出身で20世紀後半のイタリアを代表する演劇人・映画作家であり、ジル・ドゥルーズとの共著『重合』でも知られる。ベーネは2002年に死去したが、晩年のインタビューで「アントニオ・ダス・モルテス』はすべて完璧なレベルではないが、少なくとも20分の真の瞬間があった」と語っている(1)。ローシャはこのベーネを俳優として『クラロ』Claro(1976)の出演に迎えているが、この時期ベーネの作品の影響を被ったのではないか?と大いに考えられうる。ベーネの映画は代表作『サロメ』Salome(1971)のように5台以上の複数キャメラで撮られた登場人物たちのアクションと複数の声が絶えまなく変化し多調性を伴いながら(例えばキリストやサロメの母はダブル・キャスト)激しいモンタージュの中で絡み合って突き進むキャメラ前の戯曲の「上演」である。後にベーネは遺作『オテロ』Otello(1979、完成は2002)において固定キャメラによる簡素なスタイルへと向かった。一方母国に帰って撮られたローシャの遺作『大地の時代』A Idade da Terra(1981)の、複数のキリストがブラジル全土にあらわれて革命のアジテーションを叫ぶ演劇の上演とする構成や過激化したモンタージュにベーネ映画との出会いの反響を見ることができよう。更にローシャはこの遺作において、フィクションの人物の叫びをカーニバルやコパカバーナやジャングルやストリートのドキュメンタリーを背景に撮影し、自分や撮影クルーの声や姿も被写体として取り込んでいく。つまりマノエル・デ・オリヴェイラの言葉を借りれば「映画は後からやってきて、すべてを定着(記録)する」。それをあらゆるものを吸い込む口に喩えることもできよう。ローシャによるトロピカリズモはルーシュのシネ・トランスを通過し、映画撮影というフィクションを祭儀として行った一つの実践だったように見える。

さてこのローシャは日本でさえ配給され彼の名を有名にした『アントニオ・ダス・モルテス』の製作直前に同じ撮影クルーと俳優を使い『癌』Cancer(1966)を撮影している。3日で撮られ編集に数年をかけたこの映画は本国でさえ一般公開されることはなかった「Udigrudi」(アンダーグラウンド)、シネマ・マルジナルの先駆けとなった映画とされる。シネマ・ノーヴォが軍事政権の抑圧の下で衰退していった当時のブラジルには、自主製作で映画を撮っていた人々、例えば後にラス・メイヤーやエクスプロイテーション・シネマに匹敵するカルト的なファンを持つに至ったコフィン・ジョーことジョゼ・モジカ・マリンスのような先駆者やその弟子イワン・カルドソのような映画作家たちがいた。その後彼らマージナルな映画作家の代表的な二人、ホジェリオ・スガンゼーラとジュリオ・ブレッサーニはグラウベル・ローシャの『テラス』Patio(1959)の女優でもあったエレナ・イグネスとともにBelairというプロダクションを設立、さらに軍事政権のため亡命を余儀なくされた後もヨーロッパで映画製作を続けた。スガンゼーラの長篇第一作『赤い光の盗賊』O Bande da Luz Vermelha(1968)はゴダールやオーソン・ウェルズ、サミュエル・フラー、グラウベル・ローシャやコフィン・ジョーの影響とサンパウロのストリートの現実とシャンシャーダ映画の混合から生まれた映画である。『勝手にしやがれ』の主人公ミシェル・ポワカールとは似ても似つかぬ風体の押し込み強盗の男と警察の追跡がウルトラマンとゴミ捨て場で踊りまくる女たちの映像と『狂乱の大地』のサウンドトラックの引用の混合で幕を閉じるこのジャンク・フィルムはブラジルのシネフィルにとって一つの指針となった。すなわち「ゴミの美学」は軍事政権の抑圧とハリウッドの下部構造に甘んじる当時のブラジルの若い映画作家の精神的支柱となったのである。

スガンゼーラが晩年ウェルズ(言うまでもなく彼もアメリカという祖国を追われマージナルな状況で低予算映画を撮り続けた亡命者であった)のブラジルについての考察を含んだ未完の作品『イッツ・オール・トゥルー』のフッテージを取り上げ、考察・分析する連作へと向かった一方(遺作『カオスの徴』(2004)もやはりこのウェルズ作品に着想したフィクションだという)、ジュリオ・ブレッサーニはカエターノ・ヴェローゾ主演の『タブー』Tabu(1982)以来フィクションとしての伝記映画というべき作品を製作していく。ブラジルでの奴隷解放を唱えた神父アントニオ・ヴィエイラを扱った『教義』Sermoes-Historia de Antonio Vieira(1989)、20世紀初頭の作曲家マリオ・ヘイスを扱った『マンダリン』Mandarim(1995)、聖ヒエロニムスを扱った『サン・ジェロニモ』Sao Jeronimo(1997)、ニーチェを扱った『トリノでのニーチェ』Dias de Nietzsche em Turim (2001)など、ブレッサーニは歴史上の人物をとりあげ、絵画やサイレント映画(そこで再びマリオ・ペイショトが参照される)のモダニズムの美学やテクニックを甦らせ、現在の映画と結合させる。例えば『マンダリン』でガル・コスタやジルベルト・ジル、シコ・ブアルキらが別の歴史的なミュージシャンたちを演じ歌うとき、ブレッサーニはそれがキャメラ前での彼ら自身のドキュメンタリーであることも示すのである(ブレッサーニとは長年の協力者であるカエターノ・ヴェローゾのみ自分自身を演じる)。同時に生の音とサウンドのコラージュにはウェルズの『市民ケーン』の引用、スタッフらが写った撮影前後の断片が使用され、あくまでも作者ブレッサーネの視点による自由な想像によるフィクションであることを告げている。このフィクションとドキュメンタリーの2重の側面へのアプローチにおける、ブレッサーニのフレーミングと色彩、サウンドへの繊細さが彼を現代ブラジルを代表する映画作家のひとりにしているのである。

このブレッサーニの姿勢が2000年において現代のポルトガルを代表する映画作家との興味深い映画的な出会いを準備する。マノエル・デ・オリヴェイラはこの年ブラジル・ロケを行いアントニオ・ヴィエイラを扱った『言葉とユートピア』Palavra e Utopiaを完成し、この映画はその年の10月にサンパウロ映画祭で上映された。ブラジルの俳優リマ・デュアルチら3人のまったく容姿も声も異なる俳優によって若年、中年、老年を演じられるこのフィクション作品はいつものオリヴェイラ作品同様ヴィエイラのテクストを朗唱する3人の俳優の強力なパフォーマンスのドキュメンタリーでもある。つまりその点で美学的に全く異なるブレッサーニの作品と類似する姿勢を見出すことができるのである。面白いことにフランスでリベラシオン紙がオリヴェイラ作品を前衛的と呼んだのと対照的に、ブラジルにおいてはリマ・デュアルチが語っているようにブレッサーニの作品はより前衛的でありオリヴェイラの作品は古典的だとする批評が見られた。ブレッサーニはオリヴェイラの作品を賞賛しつつもそれが巨匠の名声によってアカデミズムにおいて決定的なヴィエイラの真実のイメージとなることを危惧していた(2)。だがポルトガルにおいては、『言葉とユートピア』はカトリック教会のアカデミズムの立場からやはり「これは真実ではない」との批判を受けていたのである(3)。そう、これはブレッサーニの映画同様に個人の視点から製作されたフィクションである。オリヴェイラもまたポルトガルのサラザール軍事政権下では自主製作、撮影も編集も一人でこなしていたマージナルな映像作家だったことを忘れてはいけない。オリヴェイラは「フィクションを通過せずに我々はどうして真実に接近できるのか」との問題を提起している。それはメディアが氾濫する現代においてますます我々を脅かしているがゆえに緊急に考察されるべき問いである。

そしてフィクションを通過せずには真実に接近することができないのはドキュメンタリーの場合も同様である。シネマ・ノーヴォ以後の代表的なドキュメンタリー映画作家エドゥアルド・コウチーニョの『エヂフィシオ・マスター』Edificio Master (2003)はコパカバーナの巨大アパートの中流の生活を送っていると見られるさまざまな人々のインタビューを集めた作品である。そこで人々は監督との対話から自分自身について語っていくのだが、例えば子供を育てながら売春をする女の子が「私は嘘つきだけど、今日話したことは本当だ」というとき、我々にはそれを確かめる術はない。それはリオのファヴェーラに住む信仰を支えとして生きる人々のインタビューを集めた『聖なる力』Santo Forte(1999)も同じである。映画は言葉とその文脈とリズムの連続性を保持しながら演出し編集するコウチーニョの熟練した作業を経て作られた言説=フィクションと呼ぶべきものを通過しつつ観客個人にその真実の判断を委ねるのである。コウチーニョ自身映像がどうやって撮影されたのかを明確にすべく自分と撮影隊の姿を被写体として登場させている。1991年の湾岸戦争開始に最も有効なプロパガンダとなった例のヒル・アンド・ノールトン社がクウェート大使の娘に看護婦を演じさせイラク兵士の赤ん坊虐殺を証言させたビデオ映像以来、この「証言」という手法が真実との結びつきを安易に保証するものとは思われなくなったのはもはや常識である。あまりにも過剰な映像と情報の洪水の中で、今や映画作家たちは「真実」へのより複雑な道を模索する挑戦を強いられることになったのだ。そしてそれは日々の生活で映像に多大な影響を被っている誰でも(映画に接することなどない人ほど音や映像に影響を受けることはありうる)、緊急に注視しなければならないことがらなのである。

ブレッサーニやスガンゼーラより後に現れたやはりマージナルな映像作家アルチュール・オマールは映画作家というよりマルチメディア・アーティストととしてMOMAでの展示が行われるなど国外で有名である。35ミリ長篇としては『悲しき熱帯』Triste Tropico(1976)があるのみだが、これがパリに亡命したカニバリズムと魔術研究家のドキュメンタリーを装ったフィクションであるように、彼もまた境界を超える映像作家であり、アルベルト・カヴァルカンティへのオマージュである短編『青春の宝』Tesouro da Juventude(1977)を製作している。また彼はかつてピノチェト軍事クーデターにより祖国チリを追われ1974年以後ヨーロッパで活動しラテン・アメリカを代表する映像作家となった映画作家ラウル・ルイスをテーマに2本のビデオ作品を製作している。『抵抗する城』Castelo Resiste(1995)と『ラウルの本』O Livro de Raul(1999)は、前者がインタビュー、後者はルイスの帰郷に同行する作品であり、前者のタイトルはルイス自身の作品に頻繁にあらわれるモティーフである城、バロック演劇の代表であるカルデロン・デ・ラ・バルカの『人生は夢』の主人公の体験する、自分の住む城が牢獄へと変貌してしまう光景に由来する。それはまた、祖国を突然追われることになったルイス自身の原体験とも重なるものだろう。それはおそらくあらゆる境界を越える者によって撮影された、どこにも所属しえない者二人の出会いのドキュメンタリーであり、フィクションであろうか。オマールはまた殺された人々の写真からマニエリスムの起源を探る短編『蘇生』Ressurreicao(1989)において、打ち捨てられた身体が消滅する前に語っている何かを凝視することで忘れ去られた夥しい人々を蘇生させようとする。それは我々が生の基盤とする、死者を消費し忘却するシステムに抵抗しようとする作品である。

このように優れたブラジルの映画作家たちは一貫して完璧さを拒否し、それどころかジャンルやシステムや国をも離れトラッシュフィルムのようなマージナルな環境から出発しながら、映画が持つ本性である、世界のあらゆる様相を吸収し定着させるためのさまざまな出会いを繰り返してきたと言える。それは今後ますます一国の映像史を語ることが無意味になって行くだろう新たな時代につけ加えられるべき映画史なのである。

(1) www.close-up.it/skene-up/focuson/speciale/04-02/carmelobene_fasoli.html

(2) Estado de Sao Paulo,10/12/2000

(3)"O jesuita e O professor veen o film de Oliveira"par Antonio Marujo, Publico,10/12/2000

(2004年東京国立近代美術館で開催された<ブラジル ボディ・ノスタルジア>における7月11日の講演にて配付、後に加筆訂正)

©Akasaka Daisuke

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