『うまくいってる?』

フランス共産党系新聞の編集者のミシェル(ミシェル・マロ)が、自分の会社と印刷所の作業を撮影したビデオ映画を製作している。国有銀行クレディ・リヨネ情報処理部と民主労働同盟の職場代表だったオデット(アンヌ=マリー・ミエヴィル)はその共同製作者で、彼の映像と製作姿勢を批判する。作業をする前に自分の視線に疑いを持つべきではないのか?

『うまくいってる?』は1975年に製作されたジャン=リュック・ゴダール&アンヌ・マリー・ミエヴィルによるメディア/ジャーナリズム批判の古典というべき映画である。彼らは前作『ヒア&ゼア・こことよそ』でパレスチナの人々との共同製作が挫折した後でそのプロセスと姿勢を反省するフィルムエッセイを製作したのだが、それに続くこの映画では、劇映画の形をとって、官僚化されている情報発信を批判している。 オデットはミシェルが書いた1974年のカーネーション革命1年後のポルトガルの記事に使われた1枚の写真を取り上げる。それはある男と向かい合った兵士が互いに腕を挙げて叫んでいる1枚なのだが、それは1972年にブルターニュ地方サン=ブリューの労働争議の1コマとして取り上げられた、男が警官の襟首を掴む写真と比較すると、曖昧なものではないか?ではそれは人によって異なる見方ができるものではないか?また写真は事実とどう結びついているのか?記事にすべくタイプを叩く手の動きと視線はどのように結びついているのか?二つの写真の映像が重ねられたり激しく交差させられたりするなかで、シンセによる瞑想的な音楽が流される・・・。

一般には女優ジェーン・フォンダのベトナム戦争中の訪問写真を批判した『ジェーンへの手紙』に続く映像分析の映画と紹介されるこの映画だが、「俳優と観客の間の映画」という字幕どおり、分析するというよりオデットによる映像への疑問をミシェルとともに観客に考えさせる映画、である。物語は彼らがビデオ映画や報道姿勢への根本的な疑義をただす方針に転換するも、上層部の圧力によって却下されるという予想通りの結末で終わるのだが、物語は口実であり、ここで提起されている疑問をマスメディアとそれを読む我々に喚起させる映像の提示を目指すものである。

この映画は1990年代以後現在のもっとも重要な問題である、本来曖昧な性格を持つ映像に結びついてそれがどのようなものかを決定し機能する言葉とそれによって作られるイメージの官僚性や情報操作について予言していた映画でもある。かつて「閉塞的な世界」というイメージと言葉がリサーチ能力のないジャーナリズムの判断停止からくる捏造物でしかないにもかかわらず流布し人々を操作してしまったように、今また「異文化対立」なるフィクションが流布してしまっていることなどその一つの好例だろう。

イメージは顕微鏡的な視線を阻み、その影で殺戮さえ消滅させる。『うまくいってる?』にも触れられている「アウシュヴィッツはなぜ知られることがなかったのか?」という問いは後にハルーン・ファロッキの『この世界を覗く・戦争の資料から』に引き継がれ、現在の戦争が情報をコントロールされ視線の届かぬ場所で消滅させられつつあるという新たな問題提起につなげられている。この4年後に撮られたストローブ=ユイレの『早すぎる、遅すぎる』がリュミエール兄弟の最初の映画『工場の出口』を再現しながらそれが単なる記録でなく演出されていたものであることを観客に考察させていたように、70年代には難解だとして遠ざけられてしまっていた映像作家の一連の作業は、今ではむしろ映画好きではなく一般の人々のメディア教育のためにこそ見られるべき必須のものであるように思える。3年前に出会ったニューヨーク州議会の芸術担当はこう言っていた。「子供達はメディア教育を受けてます。でも危険なのはむしろ実際に投票に行く大人の方です。」果たして今は・・・恐れていた通りである。

『うまくいってる?』はミシェルがオデットとの顛末を書いた手紙のことを、その息子がガールフレンドに話す車のシーンから始まる。このカップルのシーンで最後にラジオからスペインの独裁者フランコの葬儀の光景で女性が涙を流している様子が語られる。その描写の声はミシェルの記事のポルトガルの写真のように曖昧である。解放に対しての涙か、それとも?映画を見続けてきた者はここでも疑問を投げかけずにはいられない。

(初出ラティーナ2003年1月号)


©Akasaka Daisuke

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