アメリカ映画(2)連続性とリスクについて

ええと、最初にこちらにお招き下さった高木先生とお集まりいただいた皆さんに感謝いたします。ありがとうございます。・・・まず今、皆さん映画館という場所で映画を見るよりも家でDVDを見るという形で映画に接する機会が多くなっていると思います。テレビが1950年代に、ビデオが1980年代に、そのあとDVDが登場してきて現在に至っているわけなんですが、そうした上映機器の発達が、実は我々を映画に近づけている反面遠ざけているということがあると思います。というのは、皆さんがそのDVDをどういう状況でご覧になっているのかわからないのですが・・・自宅でDVDを見ていると電話がかかってきたり友だちが訪ねてきたり、仕事や何らかの用事があって出かけなくてはならなかったり、DVDを買っても見る時間が取れないこともしばしばあります。DVDを借りても一回も見ずに返してしまうこともあります。実は自宅で集中して一つの作品を通して見るということはかなり難しいことだということに気づきます。

映画というのは時間をかけて接しなければいけないということが最大の問題なのです。あるイメージを時間をかけて観客に与える、共有する、というものなのです。現在はご承知のように映像機器が至る所にあってイメージというものが身の回りに過剰に氾濫しています。1950年代ですと映画は映画館の中だけにあって、そのスクリーンの前に多くの観客が座って一つの時間のなかで展開するイメージを共有していたのですが、現在ではもはやその関係がなくなっていて、逆に我々個人のほうが数多くのイメージに取り囲まれているわけです。イメージと個人の関係が変化しているんです。そういう時代になったので、時間をかけて見る映画というのは、メディアとしては、ある意味で時代遅れと思われるような状況に入ってきてしまっています。さまざまな情報機器から我々はインフォメーションを得てくるのですが、時間をかけずに得られるものほど消費しやすいですし受けいられやすく、忘れられやすいので普及しやすいのです。そうした中では映画というのは時間をかけなくてはならないために重いものとみなされてしまうのです。1時間、2時間をかけて皆さんが見るぞ、と思って見なければならないために、近づきがたいものになってしまい、受け入れやすいイメージの順位としては下の方になってしまっているのです。でも、映画は時間を体験するもので、連続性が非常に重要であって、じっと見ているうちに何かがわかってくる、見ることを耐えるものなのです。私のやっていることも皆さんに耐えていただくということなんですが・・・。それで、映画の連続性からいったい何が得られるのか、どのように得られるのかということについてですが、映画は無声映画時代からトーキーまで、100年以上の歴史があるのですが、かつて1930〜40年代のハリウッド映画を一つのピークとして、主に語り方というものを発展させて来ました。

ここから例をとってみたいと思うのですが、最初に取り上げるのは1946年のフリッツ・ラング監督の『外套と短剣』というスパイ映画の1シーンです。主演はゲーリー・クーパーで、お話は第2次世界大戦中にアメリカの原子物理学者がCIA(当時はOSSと言っていました)に雇われて、ナチスの原爆製造を阻止するというストーリーです。ここで取り上げるのは、スイスで会った女がアメリカ人であると身分を偽ってクーパーに近づくのですが、部屋に招き入れられたクーパーが、逆に次々と女がナチスである証拠を取り出して秘密を白状させるというシーンです。ここで基本的にハリウッド映画で展開されたシーンの構造があると思います。つまり一人がもう一人を部屋に招き入れて会話をする、一人が喋っているときはそのクローズアップを、またもう一人が喋るときにはそちらのクローズアップを繋ぐというものです。これを切り返しというのですが、そこに当時のハリウッドの技術の粋を集めたすばらしいシーンが見られます。

フリッツ・ラング監督はユダヤ系ということでナチスに追われてアメリカに亡命し、1950年代までハリウッドで主に反ナチスアクション映画やスリラーで活躍したのですが、このシーンはただ交互に顔を撮って繋いでいるだけのシンプルな技法のうちに、ある秘密があばかれていくプロセスが描写されます。ラングはインフォメーションをどうやって提示するかというテクニックを駆使して、観客を操っていくのです。クーパーは最初には慇懃に女を招き入れるのですが、そのうち彼女がナチスである証拠をゆっくりと(そこがすばらしいのです)懐から取り出していきます。怒った女に往復の平手打ち(というより手首が当たっているように見えるすごいものです)を食うのですが、最後にまだ切り札を持っていて、「電話がかかってくるのだが、お前が裏切り者だと伝えてしまうぞ」と言って秘密を白状させます。カットがクーパーに変わるたびに女がどんどん不利になっていく過程で、観客はもちろんクーパー側に立っているのですが、ここではむしろ女の側に立ってインフォメーションを受け取らされる形になって驚かされると言ってもいいくらいです。当然このプロセスは最後まで見続けないとどうなるのかはわからないように計算されつくしているわけでして、その連続性をくぐり抜けることで最後のインフォメーションを観客が受け取ることができる構造になっています。それが古典的な時代の、典型的なスリラー映画の面白さなのです。

続いてこれに1947年に作られたジャン・ルノワール監督の『浜辺の女』のあるシーンを比べてみます。この映画はやはりナチスによるフランス占領を逃れてアメリカに亡命したルノワールがRKOというスタジオで安い予算で撮った映画なんですが、一般的にルノワールの作品としては軽視する向きもありますが決してそんなことはなくすばらしい映画です。なぜこれを比較するかというと、同じように部屋に招き入れられた男と女の会話シーンが同じようにシンプルな切り返しのクローズアップで語られているからです。これは先のラングの映画と違って謎めいたやりとりが展開されています。話は第2次大戦中にトラウマを負った男と女の出会いを描いています。片方は乗っていた船が沈没した記憶に悩まされ、片方は自分を愛した夫がそれが原因で失明したことの罪の意識を負っています。この二人が浜辺で出会うわけですが、すばらしいのは、なんと言うこともないやり取りがあるだけなんですが、観客には何か決定的なことが起こっていることを感じさせるシーンになっているからです。逆に台詞だけ読んでいますと何のことやらと思われてしまうのですが、ということはインフォメーションの伝達で成り立つ典型的なハリウッド映画ではないということです。これは、ジャン・ルノワールはやはりクローズアップで撮られた男と女の顔を繋いでいるのですが、ラングのようなインフォメーションを操るというのではなく、言葉へのリアクションといいますか、自分の言葉や相手への反応があらわれるまでの短い時間を一つの画面の中におさめるというものです。(これと対照的なのはロバート・ロッセンの『リリス』(1964)で、同様に心を病んだ登場人物すべてが相手の何気ない問いに答えないときの一瞬の沈黙と無反応による底知れない孤独と狂気を定着させている希有な傑作です。)これは一般的なアメリカ映画に対してかなり挑戦的なシーンの作り方です。ルノワールはフランス映画に対しても挑戦的でしたし、そのため後の世代から現代に至るまで崇められているのですが、それは単純なテクニックを使うところでも実験的なことを行ったというところからだと思います。もちろんここでラングに対してルノワールが上だとか言っているわけではありません。

こういったシンプルな技法を使うシーンでも作る人や作品によって大きく変わったものになるのですが、ハリウッド全盛時代が終わった現代ではこれがどう変わっているのかということを見てみます。例として1977年のジョン・カサヴェテス監督の『オープニング・ナイト』の1シーンを取り上げてみます。これは撮影の規模やプロセスは前の2本とは大きく異なって遥かに安いものです。ご承知のことかと思いますが、カサヴェテスという人はインディーズの父と呼ばれた人で、ハリウッド映画で俳優をしながらそこで得た金を自分の作る映画に使っていました。十分な費用はなく、セットは自分の家、友人の俳優たちが出演して作っていたわけです。主演には奥さんだったジーナ・ローランズが出ています。ここで取り上げるのはカサヴェテス自身と二人のシーンで、どういうシチュエーションかと言いますと、ローランズ演じる女優が「セカンド・ウーマン」という芝居に主演しているんですが、その役柄と自分とのギャップに引き裂かれて不安定な状態になっているんですが、カサヴェテスの演じている男の部屋に行って慰めを求めるといいますか、相手役なので、翌日の舞台のために、ベッドをともにしようというような誘いをかけるんですが、カサヴェテスのほうは部屋に入れようとしない、というシーンです。ここでは入り口で芝居が終わってしまうんですが(笑)。

すばらしいのは、カサヴェテスは前の二つの作品同様に切り返しのクローズアップを使っているんですが、まずひょっとしたら写らないかも知れないという危険を冒してこれを撮っています。かなり暗いところで、ご覧になってわかるように、ところどころピントがぼけてさえいます。光量がありませんし、かなり長い焦点距離のレンズを使っていて、ちょっとでも動くとピントが外れてしまう危険を冒してまでこの撮影の仕方にこだわっているのです。なぜかと言いますと、カサヴェテスはほんの僅かの表情の反応や変化が劇的なものになることがわかっているからでして、そのためにキャメラを顕微鏡のように使って、今フォーカスを当てているのはどこかということを知らせているわけです。一般的にはスタッフのほうで拒否するようなリスクをかけてこうしたぎりぎりの綱渡りをしているのがわかるのです。リスクを負っていることを作っている方も見ている方もわかるような緊張感が伝わってくるのです。おそらくこうした作り方を見る方もわかるような仕方で作るということがカサヴェテスの映画の新しさで、他のインディペンデント映画と決定的に異なっている点なのです。

次にカサヴェテスと対照的に俳優としても監督としても社会的に成功し、今もアメリカの代表的な監督として活動しているクリント・イーストウッドの『マディソン郡の橋』の一場面を取り上げてみます。メリル・ストリープが演じる人妻がこの地の橋を撮影するために立ち寄ったイ−ストウッド扮するカメラマンと夕食をとっているのですが、そのうち生き方について言い合いをして、イーストウッドが部屋を出て行きます。この映画は1993年に撮られています。で、照明も明るく焦点距離も短いレンズを使っていて、カサヴェテスの映画のようなリスクを負っていない代わりに、別の種類のリスクを負っています。気づいた方もおられるかもしれませんが、メリル・ストリープは台詞をトチっています。もっとわかりやすいのは、イーストウッドは帰り際にフィルムを冷蔵庫から取り出そうとして落としそうになっています。これもある意味では失敗と言えます。なぜこういう失敗をそのままにしたのかということですが、このシーンはかなり長いシーンで、カメラの位置が異なっているためにおそらくワンテイクで撮影されていないと思うのですが、それでもまるで目の前で一幕の室内演劇が上演されているかのような感覚を与えるように時間の連続性に配慮して作られています。撮影する高さや角度をほとんど変えずに、たぶんかなりの部分を複数のキャメラで撮影していると思うのですが、長く複雑な撮影であるほど俳優たちは失敗する危険にさらされるわけです。

インタビューによるとイーストウッドはリハーサルをあまりやらず本番も1、2回でOKを出してしまうらしく、失敗が面白ければそのまま使うこともあるということです。そのことがかなりなまなましく、やはりリスクを冒していると言えるわけです。完璧になりすぎることは逆に危険を冒している感覚や緊張を失ってしまうということです。クリント・イーストウッドは即興を重視するジャズから学んだという意味のことをしばしば言っていますが、そのためにはシーン全体を今目の前でリアルタイムで上演されているかのように見せる必要があるのです。面白いことに、かつてクリント・イーストウッドは最初に取り上げたフリッツ・ラングのようにインフォメーションをどうやって伝えるかということをやっていた映画作家で、例えば2作目の『荒野のストレンジャー』は幽霊ガンマンが自分を殺した町にやってきて町を破壊して去っていく映画なんですが、そこではどうしてこの男がそこにやってきて何をしようとするのかを観客に計ったように伝え、操る映画だったのです。ある時期から彼は作風を変えていったのですが、それは他でもないジャズを扱った『バード』という映画があるんですが、つまり演奏シーンがあるというリスクを伴うのですが、自分でなくフォレスト・ウィテカーという俳優に主人公のチャーリー・パーカーというミュージシャンを演じさせることあたりから、俳優が負っているリスクをどうやって伝えるのかという作風に変わっていったような気がします。

このようにシーンを一幕の上演のように見えるように時間の連続性に配慮して作っていく偉大な映画作家というのは、イーストウッドより遥か以前に、皆さんが知っておられるかどうかわかりませんけれど、ジョン・フォードという人がいます。彼は西部劇の巨匠と言われている人で、無声映画から1965年の『荒野の女たち』まで、『男の敵』や『プリースト判事』のようなトーキー初期の時期にはおそらくカメラの大きさや録音の技術などに強いられた事情もあって、また『リバティ・バランスを射った男』『シャイアン』などの晩年にはおそらく意図的に、そうした作品を作っていったと思います。晩年のフォードは、言わば西部劇というものを「西部劇という時代劇を上演するドキュメンタリー映画」として再提出し、すでに死んでしまっていた西部劇を未来に蘇生させる道を開いたのです。そうしたことに意識的だったのはずっと後の1970年代に活躍したサム・ペキンパーとモンテ・ヘルマンの二人しかいませんでしたが、そこではすでにリアリティとは何かとか、フィクションとドキュメンタリーの問題が考えられていたわけです。また他にもヘンリー・キングという人も『拳銃王』『無頼の群』やいくつかの作品のなかでそうしたことをしています。

こうしてアメリカ映画はメディアとして第一義的に物語を語るとか情報を与えるということをやってきて、観客もそれを楽しんできたのですが、実は映画作家によって、情報から逸脱した、あるいは情報を判断するために見て取るべきさまざまな映像の要素をも提示してきたわけです。そこで最後にアメリカ映画に非常に影響を受けて極論に進んだフランスのヌーヴェルヴァーグの二人の映画作家を提示してみます。まず1988年に撮られたジャン=リュック・ゴダールのヴィデオ作品『皆が練り歩いた』"On s'est tout defile"はデザイナー、マリテ&フランソワ・ジルボーのPVで、ファッションショーの断片や絵画がめまぐるしくスローモーションとカットバックで交錯しています。一見何のことやらと思われるかも知れませんが、少なくともゴダールは一度に2つか3つのイメージを同時に写して重ねているだけだとわかります。サウンドトラックでも、ボードレールを朗読するゴダールの声の背景で同時にかけられた3つの曲があり、あちらからこちらへとただ移っているだけなのがわかります。つまり絶えず観客に複数のイメージを見てとってくれ、と言っているのです。例えばゲームをやっているときでもごく当たり前にそうしたことをしているのですが、でもその場合システムに操作され、捕えられています。ゴダールの場合そうではなく、観客の方にあれこれと自発的に見てとることを促す、クリエイティヴな発想を触発するための映画なのです。

これに対して1981年のジャック・リヴェット監督『北の橋』の女テロリスト、ビュル・オジェが恋人に射殺されるシーンを並べてみます。男がやってくるまで女はただ待ち合わせ場所に一人でいるのですが、そこではなにも起こっていません。ただずっと待っている女の姿があるだけです。ほとんどの人はそこで退屈してしまうのですが、ジャック・リヴェットの映画のシーンは一つのシーンを物事が起こるまでの時間とその物事とを一つのセットとして描いているのです。それはただ「物事が起こるまでには時間が必要なのだ」という当たり前のことを言っているだけなんですが、映画で実際にそれをやろうとするとかなり大変です。映画というのは出来事やインフォメーションだけを並べていかないと観客が退屈してしまうか眠ってしまうと思われているからです。(でも実は、現在テレビを見ていると。ほんの15分でまとめられる一部の情報を朝5時から夜6時頃まで延々40回ほど繰り返して大半の時間を埋めてしまっているということがわかります。本当はテレビは毎日6時間くらいしか番組を作っていないんです。だからテレビだけ見ている人は恐ろしいくらい情報操作されてしまっていることがわかります。)でもそれは現実ではないのです。ある人がアイディアを思いついて、それを実行に移そうとするところを他人が見ていると、必ず行動を起こすまでにはとんでもなく長い時間がかかっているはずです。ハタから見ているとその人に何が起こっているのか誰もわからない、というような時間が過ぎ去っていて、ある時突然行動を起こすはずです。皆さんもそうしたことをしているはずです。でもそうしたことを映画でやろうとすると、ジャック・リヴェットの作品のように4時間とか5時間とか、果ては12時間の映画ができてしまうのです。でも一般にはそうしたことは受け入れられず、ただバカみたいに「長い」とだけ言っている人ばかりなんですが、本当はその「時間の内訳」を分析してみなければならないのです。ただ、物事が起こるまでの時間と物事の結びつきという当たり前の現実を描こうとすると、テレビなどでは受け入れられないわけです。ただ映画ではこうしたことをできるというか、無理矢理やっているということなんですが(笑)、そこで他の映像メディアとそれに従属する人々に対する批判にもなっているわけです。

この「物事とそれが起こるまでの待機の時間をセットにして描く」ということは、実は第2次世界大戦後のイタリアに現れたネオレアリスモの巨匠ロベルト・ロッセリーニがやっていたことです。ロッセリーニは「ぼくは出来事よりそれが起こるまでの待機の時間を描く」、「そうすると皆にいやがられてしまう」とも言っていたわけですが、リヴェットはそうした精神を受け継いでいるわけです。ここにも連続性があるわけです。映画は連続性をどうやって考えるかということを今までやってきたのですが、一つ言えるのは、今では人々は皆あまりにも目先の記号や情報にとらえられていて、それを消費するばかりで、それを包括している時間やパースペクティヴのほうをすっかり見失っているということです。映画はすでにそうしたことへの批判や処方箋を作っているのですが、ただ無視されるか見過ごされてしまっているということなのです。

(2006年6月17日、同志社大学で行った講義に若干の加筆訂正を加えた)


©Akasaka Daisuke

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