エドワード・ヤン



以下はキネマ旬報1996年12月上旬号に「『カップルズ』の「距離」」と題して初出掲載された。

「この映画では台北の街が主人公だ」と監督のエドワード・ヤンは言っている。だが最初と最後を除けばこの『カップルズ』のほとんどのシーンは室内で演じられている。そしてそれぞれの登場人物たちも、おかしなことに何らかの理由から、部屋というものに執着している。レッドフィッシュ(タン・ツォンシェン)の父親は幼稚園事業のために借りた金を取り立てようとするギャングから身を隠すためにマンションに部屋を取る。当然レッドフィッシュを追跡するドジなギャングの手先たちもその隠れ家の部屋を探すのが目的だ。フランスから恋人と思い込んだ男マークを追ってきた娘マルト(ヴィルジニー・ルドワイヤン)はとりあえずの居場所を確保するのに迫られホテルからレッドフィッシュら4人の少年たちのアジトとなる部屋へ、さらにそこから逃れて少年たちのひとりルンルン(クー・ユールン)の家の空き部屋へと移ってゆく。またレッドフィッシュの目的も、昔父親を破産させた女アンジェラを仲間のリトルブッダ(ワン・チーザン)の占いを使って彼女の部屋に悪霊がいると信じ込ませ、金を搾り取ろうとすることだから、なおさらこの『カップルズ』は"室内劇"として展開する必然性に充ちている。女たちを"コマす"役目のホンコン(チャン・チェン)も、アリソン(アイビー・チェン)の部屋でマークから隠れ、アンジェラの部屋では手なずけるつもりが逆に食い物にされてしまうというように、女たちの部屋を行ったり来たりするのだ。

"室内劇"? だがここではその昔1920年代のドイツ映画の黄金時代にムルナウやドライヤーが撮っていた室内劇「カンマーシュピール」という映画群(その時代の最後の生き残りはおそらく『神曲』のマノエル・デ・オリヴェイラだろう)と『カップルズ』を比較しようとしているわけではない。むしろ似ているというなら、最後に、別に殺される理由もないのに銃撃されて犠牲者になってしまう人物がいるという点で、さらに何の関係もなさそうな『ゴダールの探偵』を思い出す。『カップルズ』同様に、冒頭と最後を除いてホテルの部屋でのみ展開し、金銭を巡って数組の男女が入り乱れ、最後には男女の抱擁で終わるこの『ゴダールの探偵』の公開時のインタビューで、ゴダール自身はリヴェットの『地に堕ちた愛』と自作を比較しながら、「自分は何も起こらなくなり、カットをかえなければならなくなるときまでずっとフィックスショットでとらえつづける」と説明する。これらの作品と『カップルズ』のエドワード・ヤンにもし何らかの接点があるとしたら、それは被写体を室内で見つめる、ある種の"距離"なのではないかと思っただけのことなのだ。

例えばアジトの部屋でホンコンと寝ていたアリソンを、仲間たちとも寝るようにレッドフィッシュが説得する場面は、居間から個室、さらに別の部屋へと場所を移しながら、女を意のままにするレッドフィッシュの手腕を見せる、複数の部屋を一気に覗き込むちょっと『ゲームの規則』的な流れるように続くシーンだ。ここで女はただ部屋から部屋へと連れ回されるうちに皆に体を与えることに同意してしまう。そこではシーンがどこで始まりどこで終わるのかを計算し尽くした精密機械のような距離の感覚に支えられているのが感じられる。また父親の隠れている部屋を見つけたレッドフィッシュが父に思いをぶちまけるシーンや、親子の関係を行き違ったまま父の死によって失ってしまったレッドフィッシュが感情を爆発させるまま滑稽な殺人を犯すシーンでは、ともにキャメラは途切れることないタン・ツォンシェンのすばらしいスピーチ・アクトを、つかず離れず一定の距離からとらえ続け、そのかなり長い時間を忘れさせてしまう。このように一定の距離を置くことは、『エドワード・ヤンの恋愛時代』同様にそれが「演じられている様式」のうちにあることを明白にする。これを『パリでかくれんぼ』のリヴェットが、ミュージカルという過ぎ去った時代の様式が語りや歌の"下手な"普通の女の子の日常の中に入ってくるとき、それでもなお彼らをいきいきとさせる事実を語る距離や時間と比較してみれば、より明白になるだろう。

そのスピーチ・アクトで表されるものが金銭、冷たさ、打算的な精神であるとすると、沈黙が表現するものがこの映画では一見数少ない暖かさ、情といったものだろうか。それを代表するルンルンは、レッドフィッシュのしゃべりまくる「人間には悪党かバカしかいない」「人は指図されるのを待っている」という父親譲りの哲学をいつも車の中で黙って聞いている。ルンルンは自分で言うようにグループの中の「ただの連絡係」だから、レッドフィッシュの言うような「指図を待つ」存在のように見えるのだが、一方彼は沈黙のうちに行動する人なのだ。皆が他の人間を金銭としてしか見つめないのに、彼はマルトを「違った」存在として見つめる。テレクラの元締めジンジャーとの待ち合わせ場所をマルトを恋するがゆえに思わず漏らしてしまうときのように、また警察署でマルトに愛を告白しても受け入れられないときのように、言葉はルンルンにとって扱いがたいものだ。だから、自分の失策を嘆くように黙って自分の身を壁にうちつけたり、仲間の陰謀に手を貸してアンジェラの車を壊そうととっさに走るトラックの前に飛び出してみたりする、身体を使った表現の方が彼に似合っているのだ。

死者となってレッドフィッシュに愛情を伝えようとする彼の父親のほかに、しだいに口数を少なくする人物がもう一人いる。言うまでもなくルンルンとともにギャングに捕まったマルトだ。彼女はルンルン同様にテープで口を塞がれた後、行動で意思を表すほうが自分にふさわしいと気づきはじめる。そしていったんはマークの元に戻った彼女が一人何かを決意したように黙って助手席に座っている、この映画で最も美しい画面がある。そこにある沈黙と光と距離は、『恋愛時代』以前の作品にあふれ、あるいは盟友ホウ・シャオシェンの映画にもあった、台湾映画で最も魅力的な瞬間を作っていたものだ。この沈黙と距離と光が彩る街頭でのラストシーンで、ルンルンがマルトを見出した瞬間に言葉が不要のものとなっているのは当然のことだ。しかしそれは、エドワード・ヤンがノスタルジーに浸ろうと探し求めた瞬間ではないだろう。そこで彼は、語ることを超えて沈黙を見出すという、より困難な作業を成し遂げているのである。

(2007.7.4)


©Akasaka Daisuke

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