ジャームッシュ、マッケンドリックそしてトーメ『島の探求』

ジャームッシュの『リミッツ・オブ・コントロール』を平日空いている劇場で見た後でアレクサンダー・マッケンドリックの『マッケンドリックが教える本当の映画の作り方』(吉田俊太郎訳 フィルムアート社)を本屋で見つけて即買い、あとがきでデルマー・ディヴィスの『決断の3時10分』がマッケンドリックが好んで授業に使ったテキスト=作品だったと知る。『3時10分、決断のとき』は弟子マンゴールド*による答案というわけか。なぜかアメリカの批評はこのことを強調しているのに日本の批評はこのことに触れもしない。『アウトロー』のように始まり『燃える戦場』のように敵対するふたりが走って終わるラストには共感するが、どの画面も被写体に近寄りすぎている気がする・・・『リミッツ・オブ・コントロール』のほうは製作会社にあるポイントブランクやら007やらヒッチコックやら『新ドイツ零年』やら・・・それよりも『北の橋』や『さすらいの二人』をベースにしたか?今までのジャームッシュより『溶岩の家』通過のイサック・ド・バンコレが楽しく、唯一『マラソンマン』みたいな殺しのシーンは違和感があるが(笑)クリストファー・ドイルの撮影の審美的な曖昧さを残さないCM的になりそうな映像に抗いつつ、人や物の微妙な肉感性を浮かび上がらせる作業が見事である。

『マッケンドリックが教える本当の映画の作り方』のポール・クローニンによるあとがきには、割愛した資料としてマッケンドリックによるソフォクレスの「オイディプス王」とパゾリーニの『アポロンの地獄』の比較分析(!)や「欲望という名の電車」のサイレント映画版脚本(!?)に加え何とウォーターゲート事件公聴会のテレビ映像の分析まで存在する(!!!)と書かれており、むしろ将来の多様なメディア時代を生きる人々にとって極めて重要になるであろうこれらの資料がカットされてしまったのはブッシュ政権下の出版故?ならばアクセス可能になることを望みたい。そのため一見古い時代の映画制作者によって書かれた教科書の範囲におさまっているように見えてしまうことを差し引いてもこれは相当に面白い本で、自作『成功の甘き香り』でのクリフォード・オデッツの作業が眼前に展開されているかのようないきいきとした描写の筆致、映画会社からチャールズ・クライトンの『Dance Hall』の台詞をカットするよう命じられた小話、シンデレラとハムレットと『自転車泥棒』の比較、『放射能X』の分析、『北北西に進路を取れ』『市民ケーン』のカットを起こした絵コンテなど、視軸やアングルの図のページは同じカルアーツの映画学科長だったハルトムート・ビトムスキー(ちょうど山形映画祭での『塵』の上映はめでたい)の東京でのレクチャーの資料で見た記憶があるが、そこに漲るのはイーリング・スタジオ〜ハリウッドを生きた一映画人の著した書物という以上の途方もない企てなのだ。

『リミッツ・オブ・コントロール』の審美性からの逸脱は同様にミニマルな作家と見られているルドルフ・トーメの映画にも見られるもので、特に海や湖や川の打ち寄せる波や水の活用は『フィロソファー』の最後のシーンでのマチスの「ダンス」を思わせる輪になった人々の踊りの背景に迫ってくる水や(本人は考えてなかったと言うが)、『ベルリン・シャーミッソー広場』のハンス・ツィシュラーとカタリーナ・タールバッハが敵味方の立場を超えてつかの間の逢瀬を楽しむユーモラスなシーンの背景の海や、『パラダイス』のツィシュラーと長年反目していた息子がついに和解するコテージの背景に輝く水など数々見られるものである。対照的なのがヴェルナー・ヘルツォークで、あれほど水を登場させながらそれを描く手つきは全く無感性かつ凡庸なのは驚きで、勝手な推理ではムルナウ〜トーメ、ジョン・ヒューストン〜ヘルツォーク(『ノスフェラトゥ』のリメイクがあっても、だ)の線があるのではないかと睨んでいるのだが・・・。

そのトーメ監督本人の協力もあって、ムルナウ/フラハティの『タブウ』への憧憬から南太平洋ウレパラパラ島で撮った3時間を超える大作『島の探求』Beschreibung Einer Insel(1977/8)を紹介する機会を得られたのは嬉しい(詳細はこちらを参照)。残念ながら諸事情からオリジナルの16mmではなくDVDではあるのだが、ほぼ1年1作のペースで今も健在なのに、ニュージャーマン・シネマの中で一番B級映画的センスの持ち主だからか、日本では口に上るのが稀な映画作家になってしまったトーメの作品のうちでも最もレアな映画であり、製作後30年余にして最初で最後の日本上映となる可能性は高いと思われるのでぜひお見逃しなく!と言いたい。一応フィクションとしての枠はあり、島の生活習慣や言語を探求するヨーロッパ各国から成る男女のホークス的な?学者チームと現地の人々の交流を描くというものだが、ただひたすら日常生活とディスカッションが描かれるうちに、トーメの繊細この上ない被写体としての物質や人々への配慮が横溢しているのが感じられる。同じ物質への配慮という点でビトムスキーの『塵』との比較も興味深いところだろう。どちらもストローブ=ユイレの弟子筋にあたるところから納得できるところだが(ストローブを感動させたというトーメの初期短編『ステラ』やダニエル・ユイレ編集の『ジェーンはジョンを撃つ、彼がアンと関係を持ったから』など何とか見てみたい)、トーメの方は厳格であるよりはセンシュアルで、例えば下記シーンのマスターショットからクローズアップに近づき離れる構成をたどたどしい英語で語られる情報以上に沈黙から語りへの瞬間をとらえるための連続性への配慮と距離感と編集はすばらしいの一語である。

ほぼ現地滞在半年を費やしたこの作品、監督本人のメールによると1シーンを除いて1台の16mmで撮影しているとのこと。新作の脚本を書きはじめる前に必ずバッド・ベティカーのラナウン・サイクルの作品群を思い浮かべるという省略の人トーメには例外的な生の時間の尊重が顕著な作品で、フランス上映時にはジャン・ルーシュだけが絶賛してくれた、と思い出を書いてくれたが、今回の上映がそんな彼のフラハティ/ロッセリーニ的な素晴らしさを発見し、レトロスペクティヴと新作(ベルリンに出品された『PINK』も日本の配給会社から音沙汰がないという)の上映実現の契機になればと願う。なおこれはUPLINKでの新しい上映とレクチャーのイベント・シリーズ、New Frontier New Cinema=NFNCのVol.1として行われる。

(2009.10.6)

*http://www.telegraph.co.uk/culture/3596565/Film-makers-on-film-James-Mangold.html




©Akasaka Daisuke

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