帝王の罠〜The Emperor's Trap

堀禎一の『したがるかあさん 若い肌の火照り』は、先立った夫の息子と同棲を続ける若いルノワール的な未亡人に、義理の両親が持ちかける夫の弟との縁談と同時に親友と同棲しているかつての恋人がよりを戻そうと迫ってくる話に、息子の恋人の女の子や夫の先妻がその弟に抱く思慕が混じり合うという展開の中で、成瀬巳喜男と吉田喜重(『水で書かれた物語』)ができなかったことをピンク映画でやってのける作業のうちに現在日本のスクリーン上の性描写可能コードはどこまでなのかを確認する試みであり、またとにかく人々の背景=画面奥に置かれあらゆるニュアンスで輝く光と演出の豊かさに目を奪われる傑作だ。例えば嫉妬した恋人が立ち去った後のシーンで息子の憤りを受けとめるポニーテールのヒロインとその横顔の後に輝く緑、彼女が両親の申し出を断り去ろうとする夜の玄関先を照らすトラックに映える白、さらに汗まみれになって最後に「明るく励む」ふたりの裸の上に降り注ぐ戸外からの眩い白い光。また別々の理由からヒロインの家を訪ね酔った勢いからコトに及んだ亡夫の弟と先妻が帰宅者の足音を聞いて結合中の身を這いずりながら隠す滑稽な闇の光景は、ピンク映画を突如サイレント時代の身振りに目覚めさせたかと思わず錯覚してしまうほどである。70分でこれほどまでに多様な世代の男女を描きわけながら、昔ながらのコードに従って自足している井口奈巳の『人のセックスを笑うな』とそれを支持する批評家の保守性を嘲笑するかのような、奔放で悪辣かつ狡猾なフィルムであるこの2008年ベストワン映画を、昼間のまばらな喫煙客とともに薄暗い映画館で見るというのは、不況ニッポンのイメージどこ吹く風の何とも豪勢な体験であろう。

それに比して同時期に行われたストローブ=ユイレ特集に集ったアテネ・フランセ文化センターの超満員の客に漂っていた閉塞感は、『ジャン・ブリカールの道程』においてストローブとこの作品を最後に逝去したダニエル・ユイレが捧げた相手であるペーター・ネストラーの映画の不在によって醸し出されるものである。『ジャン・ブリカールの道程』は言うまでもなくロワール川を巡る映画であり、それはすでにウィーン映画祭で実際に行われたように「川の作家」であるネストラーの作品とともに上映するなら、ストローブ=ユイレの「孤高の作家」というイメージに観客を安住させることなくいっそう豊僥な何かをもたらしただろうことは間違いないからである(同様に『すべて革命はのるかそるかである』もまた、それが捧げられたフランス・ファン・デ・スタークの『バルフ・デ・スピノザの作業から』と併映されることによって新たな扉を開くだろう)。冒頭でコトン島の樹木を撮りながら横移動を続けていた黒白画面が急にモーター音を上げて川を遡ろうとするとき、その衝撃にも揺れることのないキャメラは、70歳を越えてなおリスキーな撮影の持続を完遂せんとする執念に充ちていて感動的だが、そこに明らかに録音済みのモノラルテープから再生されただろうこの地方の一住民ジャン・ブリカールの声が漁業に勤しみレジスタンスとしてナチスと戦った過去を回想する声が聴こえてくる時、そのイメージは決して再現されることはなく、現在の土地と音だけが写し出されていく。

『早すぎる、遅すぎる』で同時録音の朗読の声を使って追求された過去の再現の拒否=現前性の批判がすでにネストラーのものだった事実はストローブ自身の初期のインタビューやテクストから伺えるが、この「現前性の批判」がたんなる語られる情報と現在の風景の羅列ではなく、ネストラーにおいて一つの画面が別の画面に繋がれるときの背景音の転換または消去の音の触感が、ストローブ=ユイレにおいてはいつ断ち切られるのかを待ち受けながら画面を見聴き続けるサスペンスにみちた持続感とともに、ドキュメンタリーを真実の窓のように考え情報操作されがちな古い観客の意識に、メディアでもあるフィルムそれ自体の物質感や成り立ちのほとんどエロティシズムとも言い得る存在感を呼び起こすのである。ネストラーが撮ったダニエル・ユイレ追悼の短編『時の擁護』に引用されているシンポジウムの記録フィルムでの彼女の発言「金持ちには時間がない」はそうした感覚を擁護する言葉である(もちろんこの作品こそ併映されるべきだったろうけれど)。

今や記号だけではなくそれを包括する時間や空間を考察しなければ真実の様相がまったく変わってしまう時代に対応できないと、批評は死蔵目的の資料集か作家崇拝と化してしまう。スラヴォイ・ジジェクは即時的な反応よりインターバルの時間を取ることの必要性を説いている(1)が、それはすでに「待機の時間」を主張したロベルト・ロッセリーニに半世紀以上遅れている。普及しない映画(だが「普及」とは往々にして恣意的に「操作されている」)について語ろうとしないジジェクの文章は、例えば彼自身アマチュア映画作家出身の過去のためか自国スロヴェニアの映画を無視しているため、読者はかつてその初期作品をストローブが「コクトーとマラルメの間にいる」と絶賛したマチアス・クロプシスの死について知ることができなかった。フランスで完成度の低い弟子しか生み出していないモーリス・ピアラよりは実験的なホセ・ルイス・ゲリンがやろうとしたことがフランス・ファン・デ・スタークによってすでに超えられていたように(とは言えゲリンがマルセル・アヌーンの第一作『ある単純な物語』のリメイクを構想しているのは注目すべきである(2))、メジャー化するシネアストについて語る言説は常にそれが潜在的にマイナーな誰かに超えられている可能性を推察していなければ誤った判断を下しかねないのである。

(1)「人権と国家」集英社新書、P13

(2)http://www.contracampo.com.br/90/artentrevistaguerin.htm

(2008.12.23)


©Akasaka Daisuke

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