『永遠の語らい』

先日アテネ・フランセ文化センターに超満員の観客を集めたペドロ・コスタ監督特集の合間、熱気を孕んだ廊下から離れた別室で、不意にジョゼ・アルヴァロ・モライスの死が話題に上った。「彼を知ってた?」と問い返す私に「知ってたよ。」『道化』と最後の作品が好きだという。1月30日に死去したが、ずっと闘病生活を送っていたらしい。プブリコ紙のサイトにはテレサ・ヴィラヴェルデら若い作家たちの哀悼文が載っている。昨年のセーザル・モンテイロ(彼の『白雪姫』は『ヴァンダの部屋』に劣らないラディカルな傑作だ)といい、またしてもポルトガルの民主革命を体現した映画を残した人々が相次いで去ってしまったことになる。ペドロの映画学校の先生でもあったアントニオ・レイスも含めて、大方の日本の批評家たちが作家を孤立した点として語れば事足れりとしてしまう貧しい方法に逆らって、彼らの映画がいつか線として日本でも語られる日が来なければなるまい。

さてそれよりずっと年長の巨匠であり、独裁政権下で撮った『春の劇』こそ今の日本で公開されるべき真の傑作であるマノエル・デ・オリヴェイラの新作『永遠の語らい』は、またもやとんでもない冒険に出て人々を驚かせてくれる。ある女性歴史学者とその娘が客船に乗って地中海諸国を訪ねるというのが物語だが、なんと94歳にして何カ国ものロケ(普通なら止めるけど)、ポルトガルからマルセイユ、ナポリの遺跡からギリシャの神殿、イスタンブールの寺院からエジプトのピラミッドまで・・・しかも初めてそれらを撮影するとは到底思えない見事なフレーミングと異なったそれぞれの土地の空間を伝える録音(特にマルセイユの生き生きとしたノイズのなかでの対話)にはただただ感嘆するしかない。常連レオノール・シルヴェイラ演じる歴史学者は娘に世界を学ばせるため各地の名所旧跡の観光客に混ざって説明をちゃっかりとただで聞いたり、都合よく博学の神父に出会ったり、最後には荒唐無稽にもエジプトでオリヴェイラ映画常連のルイス・ミゲル・シントラに出会ったりする(笑)。しかもなぜか彼は母娘のためにエジプトのガイドをやったりして(ムチャクチャ)。もちろんそれ以前に航海してるはずの船の舳先のアップがどう見ても止まっているようにしか見えなかったり(もちろん狙いだ)するカットに笑わされている観客にはニヤニヤな展開だが、それに遠景で海を行く船の手前に一瞬波がかぶる画面の美しさやイスタンブールの港に徐々に近づく移動の緊張感も尋常なものではない。つまり我々はまたしてもドキュメントでも幻影でもある不可思議な映画の魅惑にとらわれるのだ。 さてその後船の食堂でカトリーヌ・ドヌ−ヴ、ステファニア・サンドレッリ、イレーネ・パパスというフランス、イタリア、ギリシャの3カ国の女優と船長役のジョン・マルコビッチがそれぞれの言語で語り合う長い固定画面のシーンを見ることになるのだが、これも冒険というしかないシーンなのだ。なぜなら実際彼らは全ての言葉をしゃべれるわけでもないわけで、自然に会話するタイミングをとること自体が困難なものと想像されるからなのだ。そしてこのリスクこそが一見平和なこの会話シーンを生々しい緊張感が彩ることになる。だからこれは呑気さを装いながらも冒険と名人芸の連続なのだ。こういうことに気づかない人たちは日本が徴兵制になろうが参戦しようが気にもとめないだろうが・・・。

唐突とも思える最後の暗転を受け止めるマルコヴィッチの顔は、その後オリヴェイラ自身が受け取った友人ジャン・ルーシュ(彼の『ハムの娘の通常の狂気』はオリヴェイラ的な傑作だ)の事故死の報を予告していたのだろうか。オリヴェイラは現在新作『第5帝国 昨日のような今日』でキリスト教帝国を目指してイスラム征服を目指した最初の王セバスチャンの物語を再び取り上げているが、おそらくそれは「西欧文明中心主義最後の体現者」(笑)としてその文明の愚かさへの哀歌となることだろう。

(初出ラティーナ2004年5月号)


©Akasaka Daisuke

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