リトウィック・ガタク sound of madness

薄汚れた布に一見無造作に書かれたタイトル文字が時間が惜しいとばかりに矢継ぎ早に写し出されると、バックにはフリーなパーカッションとドラムスが激しく交錯する中で無調のフルートを吹きまくる。やがて半裸で地べたに座った老人が小屋の中でぼ〜っと一点を凝視する正面像が、それに続いて唐突に真っ白なセットで全身黒づくめの3人組がシタールとパーカッションに合わせて異様なダンスを踊りまくる。モジモジ君?『荒野のダッチワイフ』へのインドからの返歌か?アル中男のさすらいを描くリトウィック・ガタク最後の長編劇映画『理由、ディベート、ストーリー』(1974)は、彼がカサヴェテスやモンテイロ、そしてペキンパー(最後はブレヒト的な銃撃戦!)の偉大なインドの「ブラザー」だったことを明らかにする傑作だ。この作品は第2次大戦直後のベンガル分割と政治運動への挫折を背景に持つ知識人の最後を自作自演で描き、ガタク自身の「生前埋葬」を行う(この点でモンテイロの『行ったり来たり』に先駆けている)。妻と息子に家を追い出された彼はかつての教え子で失業者の若者とバングラデシュ人の娘を伴って田舎への放浪の旅に出る。そこでサンスクリット語の教師や元知識人のポルノ小説家や反政府ゲリラに出会い、対話を繰り広げる。

 

『理由、ディベート、ストーリー』でもさまざまな地方の生活と祭がたっぷりと撮られているように、ガタクはフィクションの枠組みにドキュメンタリーを混ぜ合わせる。すでに1961年の『E-Flat』はジャック・リヴェットの同時代人にふさわしく、対立する二つの劇団の合同上演がメロドラマとともに展開される(おそらくこの映画と『パリはわれらのもの』の2本立てが必要だろう・・・ってこっちも日本公開されてないよ!)。それはまだ古典映画の枠内に留まりながら、1940年代にガタク自身が参加していたIPTA(Indian People's Theater Association)による左翼演劇運動の再現である室内劇が展開される一方、恋人たちの窓辺に降り注ぐ豪雨のように、不意に戸外の風景や自然の荒々しさを混入させる。バングラデシュで製作されたガタクの最も感動的な『ティタシュという名の河』(1971)は、妻を一時的に誘拐されて発狂してしまった漁師と彼に惚れていてその息子を引き取った一人の女の悲劇を中心にティタシュ河のほとりの村の存亡史を描きつつあまりにも豊かな河そのものの乾季から雨季への表情のドキュメンタリーを挿入する。何度となく超絶的な画面に目を奪われてしまうのだが、それはルノワールが『河』で描いた官能的な緩やかなリズムを引き継ぎ、サタジット・レイの凡庸さと異なった逸脱性と凶暴性をも秘めたものだ。

ガタクはしばしば登場人物二人の会話シーンであっても広角レンズに空間の奥行きをいっぱいに使った構図の画面を使用し、人物の視線でのクローズアップより全景での逆構図の画面を繋ぐことが多い(この空間の重視の点から溝口の映画と比較してもいいだろう)。そのためしばしば女一人の頭部の背景がロングショットだったりするが、これはより想定外の人々や自然や夾雑物の動きが入ってくるため、完璧な画面の成立を危険にさらすものだろう。実際ときには遠景の人々がキャメラに近づいたり視線を送ったりするのを厭わないほど、ガタクは「外」に対して意識的な、現代を射程に入れた映画作家だったと言える(おそらくそのため彼は孤立し早すぎた死を迎えた)。そしていざクローズアップを使う時、例えば狂った夫が外に佇む部屋の中で、彼を愛しているが決して正気に戻ることのないことを知っている女たちが火を囲み悲しみと悟りの口調で語り合うシーンのように、それ自体目もくらむほど感動的だ。

冒頭で述べたように、その狂気は画面とともにサウンドの異様な使用にもあらわれている。すでに多くの英語文献でも言及されているように、素直な「女の一生もの」として受け入れられやすいせいか紹介済みの『雲のかげ星宿る』でも、最後近く入院したヒロインが「生きていたい!」と絶叫すると、突如エコーとともにその声が山々に響き渡るが、その背景に爆音とも波音ともつかぬ異様な音が聞こえてくる。『E-Flat』でヒロインが恋人の演出家との別れとパリ行きを決意して夜更けの町を帰る時、出会った子供の呼び声と銃声と鈴音がループしながら後を追いかけてくる。『ティタシュという名の河』で、初夜を迎えようとする恋人たちの背景に過剰なまでに花嫁の荒い呼吸が聞こえてくる。もちろん田中登の『人妻集団暴行致死事件』のようにセックスそのものを描かずに映像はフェードアウトしてしまうが、それはやはり女の死への予兆でもある。また母親が死んだことを予感した息子がその名を呼ぶ時突き刺さるような高い笛の響きが、その息子を引き取った女がいつまでもなつかない彼への怒りを悪鬼の如くあらわにする時、川辺で洗濯物を叩き付ける打撃音が異常なまでに大きく鳴り渡る。そして土地を追われ何もかも失った女が砂漠をさすらっていくと、去っていったその息子の幻影を見るが、彼もまた異様な音の喇叭を吹きながら狂ったように畑の中を走っている・・・。

 

  すでに輸入DVDで、何ならweb上でも(ただし字幕なしで)見ることができるガタクの映画を今更書いているのは、当然最良の上映場所である映画館で見たいからである。映画関係者がこのサイトを読んで反応してくることは最近皆無なので書いても仕方ないとは思うのだが・・・インド映画ブームなどまるでなかったようにTSUTAYAのコーナーもなくなり、アジアン・ブームも去って(今は邦画ブームらしいがひょっとしてこれが去ると映画館そのものが消えてしまうのだろうか)、今こそ国やカテゴリーを超えてガタクの映画に漲る狂気をじっくり味わう時期が来ているのではないか。そしてこの文脈で「外」を意識していた彼の後継者を探ってみること・・・ベンガル語圏を超えてインド(本数膨大といっても多言語のこの国ほど実は狭いカテゴリーに閉じ込められている国はないので、何もゴーパーラクリシュナンとかマニ・カウルのような公認の弟子でなくてもいい)、あるいはタミル語圏出身のハリウッド移民M・ナイト・シャマランにさえ関係を見出すほうが面白いのでは(何もムチャ振りではない、外界に対する家族共同体の物語という点から見て)?

(2007.8.8)

*などと言っていたら『ティタシュという名の河』と『理由、ディベート、ストーリー』(は『理屈、論争と物語』として)、2007年TOKYO FILMeXで上映されるという。他の2本は『非機械的』(かつては『アジャントリュック』として紹介』)と『黄金の河』である。『偉大なるアンバーソン』と『若者のすべて』の影響下に撮られたとおぼしきデビュー作『市民』がないのは残念だが・・・なお監督名表記は今回から「リッティク・ゴトク」になったようだ(笑)ラテン系の国々の人によって違う発音につき合わされてすっかり寛容になっているこっちとしてはまあどうでもいいことだが。


©Akasaka Daisuke

index