from Blue Villa to Gradiva

死にそうだったから<不死の人>に入ったのかそれとも<不死の人>に入ったから死んだのかわからないし生前の講演でも「これから自分は死者として話す」(1)と言っていたアラン・ロブ=グリエが死んだからといって追悼するのはどうかと思うが、せっかく新作映画『グラディーヴァ マラケシュの裸婦』がDVDで発売されるので話題に便乗してみることにすると、前の映画『狂気を呼ぶ音』Un Bruit qui rend fou/The Blue Villa(1995)がシネマスコープで撮られていて、ギリシャロケの白い帆船と赤い帆と青い海が『囚われの美女』のブルターニュの海岸の仕掛けよりいっそう視界を覆うという大スクリーン用の効果が施されているのに比べて(だからパソコンの画面ではキツい)、モロッコで撮影された新作『グラディーヴァ』は扱われているドラクロワのデッサンがモティーフのせいかいっそうモノトーンで簡素な印象を与えるし、手持ちキャメラを使ったり、主人公を演じるジェームズ・ウィルビーも初期の『不滅の女』(1963)以来の作品の俳優たちに比べて演技が「自然」だったりそれらしく迷ってみせたりするが、そのことは「自然さ」が更なる巧妙な偽装に他ならなくなった時代を反映していると言えるだろう。

 

音響をミシェル・ファノからフランソワ・ミュジーに変えた『狂気を呼ぶ音』はギリシャの人気のない海岸の麻雀に興じる中国人が遊ぶ店を舞台に、売れない脚本家がテープに向かって語りかける物語で始まり、彼はどうやら彼の娘=娼婦を殺して失踪したらしい男=亡霊であるフレッド・ウォードが演じるフランクこと「さまよえるオランダ人」(雀荘の壁にその絵が掛けてあり、アリエル・ドンバールと殺される娘が歌っているのはもちろんワーグナーで、この作品自体ラウル・ルイスの『水夫の3クローネ』のパロディだと言える)が蘇ってくることに怯えていて、村人たちや画面内に時々登場するミュージシャンたちもキャメラ目線でわざわざ「フランクが戻ってくる」とか何とか言っているのだが、いつのまにか結局話者自身がその犯罪に加担していたらしく警察と村人に追われて殺害され、すでに亡霊だったことが判明するが、その物語の真偽は不明であり、最後はウォードと娘の(霊の?)いかにもハッピーエンドなイメージで終了する。そこでは意外にもメディアとしての映画への嘲笑的な態度は目立たなくなり、アントニオーニ的な人気のない空間をとらえた画面の連鎖、奇妙にも唯物性の尊重さえ散見される。

ところで語り手が嘘をつくというメディア操作の問題を遥かに先取りしていたロブ=グリエのテーマだが、例えば『嘘をつく男』(1968)がドキュメンタリーのスタイルを偽装しつつオーソン・ウェルズ『審判』のパロディであり(スロヴァキアで撮られ、カフカの肖像が見られる)トランティニャン主演でボルヘスの「裏切り者と英雄のテーマ」を下敷きにしている(2)、ということは後の『暗殺のオペラ』『暗殺の森』のベルトルッチに着想を与えたことが80年代に論じられていなければならなかったし、『パリはわれらのもの』というより『セリーヌとジュリーは船で行く』や「火の娘たち」シリーズ(監督が撮影3日目にパニック症候群を起こして入院し後に撮り直した『Mの物語』も入れる)のジャック・リヴェットの登場人物の身体性に伴う時間(最新作『ランジェ公爵夫人』もまた恋人たちが互いを待つ時間をこそ撮ろうとする作品である)を被写体とするか否かの点での対比を論じられていなければならなかっただろう(というとエドゥアルド・デ・グレゴリオは凄え説が浮上してきそうだが・・・笑)。

 

『狂気を呼ぶ音』の12年後に撮られた、『さすらいの二人』へのオマージュであるロックという名の主人公(3)がモロッコをさまよう『グラディーヴァ』は、1911年に書かれフロイトに批評テクスト「夢と妄想」を書かせたウィルヘルム・イェンゼンの小説「グラディーヴァ」に着想した自作シネロマンの映画化というプロセスをとっている。イェンゼンの小説ではポンペイに行く考古学者の物語が、ロブ=グリエではマラケシュで1832年にドラクロワが女奴隷を描いたデッサンを探す研究家に変えられていて、前半ではちょうど『ヨーロッパ横断特急』(1966)のようにアリエル・ドンバールの女流作家が書きつつある物語として(彼女は同じくドンバールが演じる劇中のグラディーヴァともう一人の女優に時々交替する)、後半は考古学者の身を案じる女召使ベルキスの想像する物語として「見える」ようにわざわざカットバックの編集がなされている。

そこで主人公は盲目を偽装するガイドに誘われて「危険な戯れ』(1975)のように真っ昼間から女を漁る奴隷組織の館に入っていく。そこではいつもながらのロブ=グリエ映画のSMシーンと過去の自作『エデンその後』(1970)『快楽の漸進的横滑り』(1974)のSMシーンがコラージュされ、主人公は殺人を犯したかのようにわざとらしく血糊を顔面に塗りたくるところを写真に撮られるように見えるが適当な場所でカットされる。ロックは館で会った女の誘いで店に向かうと、そこでは活人画を演じるショーが催されていて、翌日女たちをモデルにした海岸での撮影会に誘われる。なぜか主人公はドラクロワに扮しているが、そこへもう一人の主人公がやってきてナイフを突き立て、再び例の光景が反復されていく・・・最後に召使いベルキスは「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」の同じフレーズをLP盤で何回も聴きながら(笑)誰もが予想した通りの行動に出る。

ロブ=グリエの映画を見る観客には語りと反復のパターンに慣れてしまうと最後までつき合う気が失せてしまうという問題点(笑)があった。リヴェット=グレゴリオの『メリー・ゴー・ラウンド』の3パート(1.ジョン・サーマン+バール・フィリップスのインプロ演奏、2.マリア・シュナイダーとジョー・ダレッサンドロが行方不明の女を捜すストーリー、3.ジョー・ダレッサンドロとエルミーヌ・カラグーズの追跡描写)のうち2がツリー状に分裂して進む形式や、後にラウル・ルイスが『9つのフェアリーテール』(シネフィルイマジカ放映済。公開かDVD化を強く望む)で行った同じ俳優によって演じられる9つのパートが交錯しながら進む形式はそれを超えようとする試みだったが、ロブ=グリエ自身が画面やその転換、ギャグや身体の唯物性をより尊重する方向に進んだとしたら、それもまた自らの反復パターンを微妙な細部で超えようとする試みだったと言えるかもしれない。文学ではファン・ホセ・サイールやファン・ベネトら、映画では前稿で述べたアヌーン、ルイスら(ロブ=グリエは両者の映画に出演している)にシンパシーを表明していた彼を、今はヌーヴォーロマンのノスタルジーと別のパースペクティヴに据えてみる方が面白いし、<不死の人>にふさわしいのだろう。

DVD『グラディーヴァ マラケシュの裸婦』 At Entertainment

(1)「ロブ=グリエによるロブ=グリエ」ユリイカ1996年10月号 青土社

(2)http://www.artfilm.sk/archiv/history/news99/grillet.html

(3)http://film.guardian.co.uk/interview/interviewpages/0,,2169523,00.html

(2008.2.24)


©Akasaka Daisuke

index