『ギターはもう聞こえない』

それが誰なのか、どんな人なのかはよくわからないけれど、いかなる関係なのかが見る者に痛いくらい伝えられてくる男と女の姿。フィリップ・ガレルの映画の一つ一つの画面は、キャプションをつけることのできる肖像画や写真に喩えることができるかもしれない。『恋人を見つめる女」とか「夫の帰りを待つ女」「別れようとしているカップル」というふうに。『ギターはもう聞こえない』の最初のシーンで、海辺に向かうバルコニーにいるジェラール(ブノワ・レジャン)と部屋の中でその姿を見つめるマリアンヌ(ヨハンナ・テア・シュテーゲ)が何者かがわからなくても、「愛している」という感情だけは伝えられてくる。バルコニーから部屋の奥に座っているマリアンヌをとらえたカメラは、ただひたすら、愛する男を見つめるその瞳の震え,微笑み、沈黙の中にあらわれてくる感情すべてを伝えられる場所から記録している。先に公開された美しいガレル作品『自由、夜』のエマニュエル・リヴァが別居中の夫モーリス・ガレルの帰宅を見つけて微笑みながらミシン掛けを続けるように、ヨハンナ・テア・シュテーゲもまた、いつまでも続けばいいのにと思わせる姿をスクリーンに描き残されていく。

マリアンヌとジェラールの社会的背景は極力描かれていない。画家である友人マルタンとその恋人ロラ、マリアンヌの母と子供や、マリアンヌのいない間にジェラールと肉体関係を結ぶ人妻も、エモーショナルでない瞬間は撮影されていないといっていい。彼らは常に愛情にひきつけられた動作または無動作を伴って画面の中に捉えられている。切り詰められた台詞を言う瞬間は、台詞が聞かれない瞬間に感情に捉えられている姿を、いっそう美しいものにする。こうしてフィリップ・ガレルの映画は、物語を語るより、愛に捉えられた恋人たちの姿の折々の断片を拾い集めたアルバムのようになる。『ギターはもう聞こえない』でマリアンヌが去って行ったことをマルタンに語る時のジェラールや、『新パリところどころ フォンテーヌ街』(84年) のジャン=ピエール・レオが、子供が欲しいと言っていた恋人の思い出について語る長い感動的なクローズアップは、さしずめ「失われた愛にとらわれた男の肖像」とでも言うべきものだろうか。

ところで世界最初の映画作家ルイ・リュミエールの撮影した映画のいくつか、例えば猫や赤子を撮影したものが感動的なのは、本来静止した写真であったなら完璧な構図におさめられている被写体が、その完璧さを崩壊させて生命の震えをあふれださせる瞬間を見ることができるからである。映画はそのとき、撮影されつつある被写体の動きによって、突然我々の感情を揺さぶり、語りかける。「私たちは生きている・・・」と。フィリップ・ガレルの映画は、愛に捉えられた人というモティーフとともに、最も簡素な撮影によって、リュミエールの映画に近くあろうとする。「我々は生きている。そして愛している・・・」とつぶやきながら。『自由、夜』の素晴しいシーンの数々を思い出してみよう。エマニュエル・リヴァ扮するムーシュが、泣きながら劇場で縫い物をするシーン、車の中で黙ったまま涙を流しているシーン、あるいはクリスティーナ・ボワッソンが演じるジェミナが、モーリス・ガレルと共にベッドにいるとき、彼女だけをとらえた無言の画面。ファトン・カーンのピアノ・ソロのメロディが歌をうたうように高鳴るのとは反対に、カメラはじっとして、女たちの感情が表出されるべき顔にフォーカスを合わせている。瞳と頬、唇の動きが、おさえきれぬ愛情に震えてくる場所に。

ガレルはかつてこう言ったことがある。「見るものは、登場人物が自ら気づく前に、(その人物の)意識下の動機を感じることができます。なぜなら、ひとつのはじまり、ひとつの断絶、ひとつの和解といったものは、決して偶然に起きるものではありません。やはり目に見える形にすることができる何かがあるのです。」(カイエ・デュ・シネマ no.359 アラン・フィリッポンによるインタビュー)そして彼の映画ほど、恋人たちの間にある暖かい気配、ぬくもりや、突然の冷却を繊細に伝えてくれる映画はない。『ギターはもう聞こえない』のなかの、例えばマリアンヌがトイレに腰掛ける時にもジェラールと手を握って離れない美しいシーン、あるいはブリジット・シィ演じるアリーヌが初めて出会い、ジェラールがひとり入浴し、アリーヌの作った料理をとり、ふたりで寝床を整える時の顔、優しい沈黙。ジョン・カサヴェテスを除けば、これほどまでにスクリーン上の人物が見る者のそばにいるように感じさせる映画作家はまったく稀なのだ。『ギターはもう聞こえない』は故ニコとガレル自身の実人生にアイディアを得た映画であり、最後には「ニコに捧げる」の文字がクレジットに現れるのだが、音楽を担当しているファトン・カーン、ディディエ・ロックウッドとソフトマシーンのエルトン・ディーンは、穏やかで悲しげな旋律を奏でていて、容易に想像できる"ロック歌手と映画監督の恋物語"というイメージを遠く離れた、一つの男と女の愛に彩りを添えている。『救いの接吻』(88年)ではバルネ・ヴィランのサックス・ソロ、『愛の誕生』(93年)ではジョン・ケールのピアノ・ソロを全編にフィーチャーしているというから、『ギターはもう聞こえない』だけが意図的に派手さを避けたのだろうか。逆に本作ではゴダール作品でおなじみのキャロリーヌ・シャンプティエのカメラによる色彩画面が目を引く。貧困に陥り、「愛があればハイになれるのかしら」とジェラールに語りかけるマリアンヌの輝く髪と肌、またアリーヌとの諍いの原因となる新しい恋人アドリエンヌを演じるアヌーク・グランベールの生々しい横顔と背景の赤の対照。

黒白でも色彩画面でも、ガレルは例えばポルトガルの新鋭ペドロ・コスタの傑作『血』の黒白のような驚嘆すべき古典的で厳密な映画空間を撮りはしない。だが『自由、夜』のフェリーの上で抱き合う男女を捉えた遠景、男をなじる女の前で白いシーツがカメラを激しく被いかける中景や、『ギターはもう聞こえない』で結婚後のジェラールとカフェで向かい合うマリアンヌの悲痛な顔を捉えた画面は、初めて運動を発明した映画作家の喜びを体現する初々しさを再び見出すことこそが、我々がすでに忘れ去った、生きていくためになくてはならぬ感情=純粋さへのエモーションを取り戻す唯一の方法だと語りかけてくるようだ。「私が望むのは、カルチェラタンの小屋に私の映画を見に来た人々が、仮にその夜自殺するつもりでいたとしても、私の映画を見て自殺を思いとどまることなのだ」(鈴木布美子「映画の密談」(筑摩書房)に収録されたインタビュー)その意味で、フィリップ・ガレルはヌーヴェルヴァーグ以後の現代フランス映画で最も(そして最後の?)独創的な作家なのだが、その彼が『ギター・・』にも出ているミレイユ・ ペリエと『バルタザールどこへ行く』のアンヌ・ヴィアゼムスキーという純粋さを体現する女優二人を共演させニコが音楽を担当した『彼女は陽光の下で長い時を過ごした・・・』(85年)の日本公開を望むのは私だけだろうか。

(初出 キネマ旬報1994年12月下旬号)


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