ひとはイメージという病にかかった

まずソ連映画というか、3本のウクライナ映画についてお話ししたいと思います。2007年にアレクサンドル・ドヴジェンコ・センターから10枚組のBOXセットが発売されたんで、何とか私自身がとりわけ関心があるユーリャ・ソーンツェワが夫の遺稿を映画化した作品を紹介できればと思ったんですが、というのもそれらはジャン=リュック・ゴダールに影響を与えたことでも知られているからです。でもその前にセルゲイ・パラジャーノフの『ウクライナ・ラプソディ』(1961)を取り上げてみます。パラジャーノフはキエフで『火の馬』を撮る前にこの映画ともう一本『化石の花』(1962)というのを撮っているんですが、それらは彼自身ネガティヴな評価を下しているせいかフィルモグラフィからしばしば除外されてしまうほどなんですが、両方とも素晴らしい映画です。パラジャーノフはよく知られている『ざくろの色』のような前衛的な作家と思われがちなんですが、この作品はむしろハリウッドのメロドラマ、昨年回顧特集があったダグラス・サークのような人のことを考えてしまいます。(それに対して『化石の花』のほうはまるで日活青春映画のような二組のカップルの話で、片方のほうの女性の家が地下密教を信仰しているせいでトラブルが起こってくるのですが、その信仰描写が見事です。)パラジャーノフはイーゴリ・サフチェンコとドヴジェンコに師事していたことで知られています。この映画とソーンツェワの『海の詩』を見てみると、田園が幻覚的な美しさを呼び起こす特殊な被写体として撮られているという共通点があります。『ウクライナ・ラプソディ』は独ソ戦を終えてオペラ歌手として復帰しようとする娘が戦場で行方不明になった恋人との過去を追想し、『海の詩』のほうは息子を連れて故郷に帰ってきた医者が独ソ戦の血にまみれた戦場の光景を思い出しています。さらにこれに現代の代表的なウクライナの女性作家キラ・ムラートワの短編『アメリカへの手紙』の一シーンを並べてみますと、前者たちが回想シーンで時制を行き来するという1960年代に西側のさまざまな作家が行った話法の試みに呼応しているのに対して、ムラートワのほうは現在の時間への執着というか、「上演の映画」としてワンシーンをあたかも演劇の一幕がリアルタイムで進行しているのを目の当たりにするかのように組み立てています。そこにウクライナという一つの国の映画史が、世界の映画史から隔絶していない事実が見出せます。

これだけ多くの映像が映画館、DVD、ウェブを含めて見られる時代ですが、東側の映像についてソ連崩壊直後は「日本で多くの作品が見られるようになる」と期待していたのに反して、奇妙なことに米ソ体制以前よりも見られなくなってしまいました(笑)。ソ連消滅前は特定の配給会社がごく狭い回路ではあっても一定量の映像を供給していたのですが、自由になるとほとんど見られなくなってしまったのです。一つには東側が西側市場に組み込まれると「西側の映画を模倣する」ようになったからで、そこに凡庸さへのプロセスがあったのですが、ゴダールが『ロシアで遊ぶ子供たち』(『新ドイツ零年』同様に重要なんですがこちらはあまり語られていません)を撮った時、それは消滅したソ連映画へのレクイエムだったのです。ゴダールはヌーヴェルヴァーグの映画作家で唯一ソ連映画を絶えず参照していた人です。そこにあったのは「興行収入を気にかけずに映画を撮る」ことができた特殊な映画群です。もちろん弾圧や投獄という別種の過酷な現実があったのは事実ですが。ムラートワやソクーロフ、ゲルマンらはその消滅した体制が生んだ最後の人々です。実はその後の人たちにも面白い人は出てきていますが、ほとんど偶然の機会に一回しか紹介されません。諸個人がどうやって見るかを考えなければいけないんです。

先週最後にお話した三つの作品、ゴダールの『パート2』からハルーン・ファロッキの『インターフェイス』Schnittstelle(1995)とハルトムート・ビトムスキーの『風と映画とフォトグラフィー』の、映画を製作しつつある自分を被写体としその成り立ちを自己批評するドキュメンタリーでもフィクションでもあるヴィデオ作品、すなわち語り手でも被写体でもある人々である自分がとらえられている映像世界について語るという、ドイツ的な作家たち、ゴダールはもちろんフランス/スイス人ですが、フリッツ・ラングあたりからのドイツ的な、システムの中にいながら自己批判という視座を提出する伝統を見出せると思います。例えばダグラス・サークはインタビューで、ラングというのはもう古いんだ、古いドイツの世界を体現していて、1950年代にドイツに戻った時にもサイレント時代にやっていたのと同じ種類の映画を撮っていた、と言っています。サークはブレヒトとディスカッションしたとき、ブレヒトは映画に馴染まないが、自分が『天が許し給うすべて』のような映画のバカバカしいストーリーと照明が大袈裟な美しさをまとうことでメロドラマの語りのシステムを可視化するという、ブレヒト自身が映画でできなかったことをやっているんだ、というような言い方をしているんです。それは確かにあるんですが、一方ラングが1960年に撮った最後の『怪人マブゼ博士』は、自分が戦前に撮ったキャラクターであるマブゼ博士の後継者である男がマブゼ博士の手法を使ってそのキャラクターを復活させ、それをゴールドフィンガーことゲルト・フレーベの警部が阻止する話で、ある豪華ホテルで飛び降り自殺未遂の女を隣の部屋のアメリカ人富豪が救うんですが、彼は実は戦後ヨーロッパに原子力プラントの誘致計画を推進していまして、女は精神分析医に操られていて、それがプラントを狙うマブゼ博士の変装なんです。で、そのホテルはヒトラーが政権奪取の際に作らせたもので地下に各部屋を監視するシステムが張り巡らせてあるという、そのヒトラーのシステムをも継承している、という意味もあるんです。そしてこのドイツの軍事力の復活という意味でその影響下にあると言ってもいいのは後にも出てくるストローブ=ユイレの『妥協せざる人々』です。ある一家が家長の80歳の誕生日のためにホテルに集まってきてビスマルクの帝国主義からヒトラーのナチス支配時代まで迫害された歴史を回想するんですが、彼らを迫害したナチスの残党は戦後ドイツにも生き延びていて復活しようとしている、それを一人の老婆が狙撃するという映画です。その部分で二つの映画は通底しています(ラングのこの作品が別の文脈で影響を与えているのはもちろん『ゴダールの探偵』です)。ストローブが、1960年代にペーター・ネストラーの他にドイツで活躍している重要な作家とはラングとロッセリーニの『不安』だ、と言っています。ロッセリーニの『不安』は女を操って浮気をした妻を脅迫する夫という話で、この「操作する」という点が共通していて面白いんですが、後に出てきたファスビンダーやジーバーベルクらニュージャーマン・シネマの人々はヒトラー時代に人々を操っていたメディアの作り出したイメージを批判するための映像を発明しなければならなかったということがあります。フランスはもちろんヌーヴェル・ヴァーグがそれ以前の老人の映画を攻撃して出てきたわけですが、今のフランスの映画批評がなお芸術という領域にとどまり続けている(笑)というところに問題があると思います。

例えば『ナンバー・ゼロ』『不愉快な話』のような、自己批判的な映像を作るジャン・ユスターシュのような後に出てきた人々は、1970年代後半になるとしだいに普通の映画製作システムでは仕事ができなくなってしまいました。フィリップ・ガレルやマルセル・アヌーン(彼はヌーヴェル・ヴァーグと同世代ですが)もそうです。ガレルはその後普及できるような作品を撮って認められましたが(その意味では『彼女は陽光の下で長い時を過ごした・・・』が依然として彼の最高傑作かも知れません)、彼らの作品や後に出てきたジャン=クロード・ルソーのような作家の作品を並べて見てみると、映像や音を作り上げているものは何かと言うことを目に見え聴こえるようにする作品で、ガレルなら彼特有の暖かさを感じさせる黒白フィルムの黒画面や露出過多、アヌーンならジャンプカットや反復や音と映像の分離、ジャン=クロード・ルソーはガレルと同世代ですが遅くにデビューしてストローブに絶賛されたりしてDVで年に数本を撮っています。長い固定画面、特に窓を被写体とする作家でやはりどうやって音を動かしたり切ったりするかという演出が面白いんですが、これらの作家はいずれもカメラを見つめる人物が出てくることをはじめとして、映像を成立させる要素は何なのかということを見せようとしています。つまり彼らはフランスの観客や批評が求める「自然さ」つまりスクリーンが窓のように向こう側が自然に推移する、というような映像を批判する映像を作ったことで市場から追放されてしまったわけです。

それらはインターネットやDVDの時代になってようやく知ることができるようになったのですが、問題なのは映像を見る側がいまだに芸術とか娯楽とかの古い枠内にとどまってしまって、映像イメージを日常のツールとして誰もが使用する時代に我々がかかった「イメージの病」について考えることから背を向けていることです。それは映像イメージが意図的または非意図的に人を操る能力を仮にそう呼んでみたんですが、かつての映画が持っていて今のテレビが行使している機能のように、イメージが世界を覆ってその外側がないかのように思わせる操作や、あるいはカップルの間、人と人との間にも過剰なイメージというものが介在していて、互いの見方を固定しにかかったり孤独にさせたりするということがあります。そういった諸々の操作から、見る側がイメージ自身の成り立ちを考えることによって解き放たれることができるようにする現代映画は、イメージの病に対する一種の処方箋とも呼べるものなんです。ですからそれらをすぐ難解とかひとりよがりだという書き手たちの本は、今日の観客がイメージの成り立ちについて考える機会を奪ってしまうという意味で犯罪的なので捨ててしまって下さい。メディア・リテラシーというものが大して普及しなかったのも、メディア論者たちが自己批判的映像を多く含むより重要な映像作品の発明の歴史をまるで追わなかったからなんです。

ところで現代映画を通過した視線で古典的なハリウッド映画の巨匠たちの作品を見てみますと、それらは単なる透明な映画というだけではなかったのではないかという疑問が浮上してきます。ハワード・ホークスの映画の速さを考えてみますと、『遊星よりの物体X』の速さはフルショットでおさめられた五人の登場人物の画面であまりにも速くしゃべるので見ている方はその人物を特定できないほどです。ホークスの台詞の速さの音楽性やリズムの追求は、実際の台詞の速さ以上のスピード感をいかに観客に与えるかにまで至っています。それに比べてラオール・ウォルシュの映画の速さはそれとは違って、実はよく見ると会話の語り出しの動きがカットされて写っていないのがわかります。カメラの動きもそうで、動き出しの部分などないのです。『遠い太鼓』のような追跡に特化した作品は右から左へと追いつ追われつする人々が正面に来てまさに過ぎようとする最も視線がとらえにくい瞬間にカットされてしまいます(おそらくこの瞬間を引き延ばそうとしたのがゴダールの『勝手に逃げろ/人生』のナタリー・バイの自転車のシーンです)。そのため見ているほうは絶えず次の動きに追いつけないという印象を持つことになるのです。これはもちろんそうしたできる限り速くしゃべらせる演出がなされているから編集できるんですけどね。反対に今のアメリカ映画、スコセッシの『グッドフェローズ』のような映画がいくら動きがめまぐるしくても結局なんだかノロノロしているように見えるのはそんな配慮がまるでなされていないからです。オーソン・ウェルズもまた速さを追求した作家ですが、晩年の『オーソン・ウェルズのフェイク』の冒頭は、よく考えるとウェルズ本人が駅のホームで子供相手に下手な手品をやってるだけのシーンなんですが、列車内から見るオヤ・コダールとフランソワ・レシャンバックの撮影クルーの三者の距離を最後まで見せない操作によるサスペンスがあります。ロバート・アルドリッチの70年代の活劇もそうです。追う者追われる者、撃つ者撃たれる者の距離を最後の瞬間まで見る者につかませない操作があります。

次にアラン・レネの『ミュリエル』を見てみます。断片的に謎めいていながらも登場人物たちの関係の進行が見てとれる一連のシーンです。この『ミュリエル』や『プロビデンス』でレネは動きやあるいは台詞が自然に続いているように見えるけれどもよく見ると時間が跳んでいる、例えば切り返しの画面で一人が視線を上げて次の画面が引くと相手は立っていて、しかも時間が経過していたり別の背景/場所だったりする、という手法を使っています。そしてストローブ=ユイレの『妥協せざる人々』はそれ以上に過激な省略を行っています。ストローブ自身は『市民ケーン』や『ミュリエル』のようなパズル的な映画ではなく、これは有機的な多孔的映画と言った方がいいと言っていますが、例えばホテルでビリヤードをしながらロベルト・フェーメルがボーイに国を逃亡しなければならなかった戦前の経緯を語るのですが、ナチスのシンパたちにリンチされ船で迎えにきた男の前で倒れ、手当てしてもらった後荷物のようにコロコロと巻かれて船で運ばれるまでが矢継ぎ早に描かれます。そのすぐ後にホテルのロビーに現れるのがリンチをした男です。フェーメルの仲間の少年(ボーイと二役)が殺されたことは画面外の声で語られています。ラオール・ウォルシュの映画同様に動き出しがなく一回見ただけではわからないほど速いフラッシュバックですが、他の普通に会話をしているシーンはできる限り切り返しに見えないように90度の角度で背景の空間を入れ込んで撮られていてそこに同時録音された背景音を使っています。この速さにもかかわらず同時録音にこだわっているんです。繰り返しになりますが、こうした速さの印象がどこからくるのかを分析してみることによって、今はテレビのクリアなインフォメーションに慣れ切っているために容易に操作されてしまう我々自身への疑問を呈することが必要なんです。

(2009年1月15日に渋谷BRAINZで行ったレクチャーをベースに加筆訂正を行った)


©Akasaka Daisuke

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