『家宝』

ポルトガル北部ポルトの若い農園主アントニオのメイド、セルサは、彼女の息子で裏社会のビジネスに手を出す「青い雄牛」と呼ばれるジョゼとクラブのマダムで情婦のヴァネッサが主人に近づくのを見て心配になり、貧しい娘カミーラを嫁に迎えようと計画する。だが実はセルサの思い込みとはまったく違い、カミーラはカジノで破産した父のせいで「人生はギャンブルだ」という哲学の持ち主のしたたかな娘で、周囲を手玉に取りつつアントニオの玉の輿に乗り、次第に家の権力を握っていく。男たちは誘惑され、次々に謎の死を遂げていく・・・。

マノエル・デ・オリヴェイラ94才の新作は前作『家路』のパリから監督の故郷であるポルトへと戻って展開される。名作『アブラハム渓谷』と同じアグスティナ・ベサ=ルイス原作だが、その裏版というべき、悪女の成り上がりを描いたピカレスク笑劇である。『アブラハム』で唖だが何でも見通している洗濯女を演じたイザベル・ルートが、反対に今回はよく喋るがまったく人を見る目のない純真なメイドを演じるところから笑わせる。同様に裕福な男たちがカミーラ(原作者の孫娘レオノール・バルダックが演じている)のうわべになぜか騙されてしまい「彼女は我が家の家宝だ」とまで言うのとは反対に、ヴァネッサはカミーラと自分達が同類なのをすぐに見抜く。ただカミーラはこの映画の登場人物のなかでただ一人だけ野心を持った人間で、金と裏稼業にどっぷり浸かって自滅しつつあるヴァネッサたちには脇目も振らず自分だけは生き残ろうとする。

映画はセルサが計画を行動に移すところから、舞台が移る度頻繁に写る列車の窓や町の遠景の必要以上に長い画面に、パガニーニのヴァイオリン曲が、まるで嘲笑うように響きわたる。場面は金持ちたちが催す晩餐や結婚式や葬式のような儀式が次から次へと展開されるが、そこで語られる台詞はこれらの儀式にうんざりしつつも出席している人々の皮肉混じりの対話である。カミーラの周囲から伯父や伯母が謎の死を遂げたり行方不明になり、ジョゼやヴァネッサは謎の事件に巻き込まれていくのだが、オリヴェイラは伯父や伯母の死の原因や、いったいそれが何の事件なのかを直接的に描かない。すべては父親のギャンブルのかたに男に売られた過去を話すカミーラのように、屋敷の中で語られる台詞の中から察するしかない。繰り返しカミーラが語るジャンヌ・ダルクの話から、唐突にヴァネッサの店が仮面の男たちに踊りながら放火される笑激のシーンへとつながり、黒幕は誰だったかが暗示される。

もちろん『パリはわれらのもの』以来この手の話法を得意としてきたジャック・リヴェットへのオマージュとも考えられはするが、この謎めいた語り口は、ちょうど今まさに我々がメディアを通じてイラクの戦争について情報を知るものの、その真の全容をけしてつかむことができない皮肉な現在を考えさせずにはいられない。かと言ってこの状況を「難解だ」と言って思考停止しようものならアメリカの笑える世論調査さながら情報操作されるがままになってしまう。もちろん日頃「わかりやすい映画」を推賞する人々こそが、実はこの状況を準備してきたのである。

だが映画はもちろんメディアのように情報だけを伝えるにとどまるものではない。『家宝』はその謎めいた状況の推移の前で繰り広げられる芝居やディテールにおいて、常にギャグや艶かしさをそこかしこに織りまぜていく。人物はその謎ゆえにいっそう魅惑的に輝くのだ。ジョゼを演じる監督の孫リカルド・トレパのむやみにおかしい演技、オリヴェイラ映画お馴染みのレオノール・シルヴェイラの無理矢理な色気、レオノール・バルダックの子供っぽさと同居するエロティシズム(特に伯父ダニエルを誘惑するシーン)。『アブラハム渓谷』の超越的なナレーションがなく、「神の視点」から見下ろす視点をとらない『家宝』だが、風景画面に顕著な距離の取り方(レナート・ベルタの撮影が毎度毎度見事)によってこのゲームの規則の滑稽さを明らかにしていき、またしても現役最高・最長老の名人芸につり込まれて笑ってしまうのである。

(初出ラティーナ2003年5月号)


©Akasaka Daisuke

texts/archives