トーメ、シンシア・ベアット(共同監督・出演)へのインタビュー
この企画は1975年に始められたが、元は1969年に『赤い太陽』を撮った後で南洋の映画を考えた時が始まりだ。1970年夏に私は西ドイツ放送局にこの映画を提案した。でもそれはあまりに変な映画で、常軌を逸していて危険と思われた。彼らは代りにもう脚本が書かれていた『スーパーガール』を制作した。その後私は1974年にベルリン映画祭のフォーラムでシンシアに会って、彼女が、自分はフィジーで育った、と私に語ってくれた。突然私の前から霧が晴れた。それは夢想でなくなり、初めて現実味をおびたんだ。私はムルナウの『タブウ』が大好きだ。そのことがきっと今までの作品との違いをもたらしたんだ。
(ベアット)私たちがこの映画に着手して1年後に『タブウ』を二人で見直して、『タブウ』がほとんど民俗学的な問題を扱っていないことに気づいたんです。
代りに『タブウ』はムルナウの心の中に起こったことを見せているんだ。
・・・最初の3ヶ月我々はただ起こった物事に巻き込まれていた。最初我々は6ヶ月撮影する期間があることを知っていたため、沢山の時間があり、ぞっとするものだった。でもカメラマンが病気になり、さらに状況が悪化すると、他の人々が病院に行く必要があった。我々は撮影不能になり、船が故障した。我々残りの三人は突然島で何もできなくなり、脱出もできなかった。映画を撮るどころではなくなったわけだ。
Q;最初の3ヶ月は何も撮影しなかったんですか?
いや、したが、でもあまりしなかった。シンシアと録音係が病院から戻ってきて、我々は1週間とても集中して作業をした。それからカメラマンと離反してしまい、2週間かける危険を冒してシドニーに飛び新しいカメラマンを捜した。
私たちはもし人々が住民たちを正しく撮影してない、と言われても、そうは思わない。それぞれを撮影できたし起こったことを正確に撮影していた。 我々が人々を3テイク撮るなんて考えられない状況だった。
Q;出演している人々の選択は、あなたの選択な訳ですが、たまたまそこに住んでいたからかそれとも彼らの能力、またはランダムになされたんですか?
いやそうではない。我々はプロの科学者でも人類学者でもなかった。ガブリエレだけが人類学を学んでいた。オットーは建築家で、我々にそう感じさせるものがあった。スザンヌはおそらく我々がそこでしていた仕事に最も通じていなかった。彼女は植物を収集していた。彼らは自分たちの役をハンブルクの植物大学で短期課程をとったと知らされていた(実際シンシアと私自身偶然にもそうしたことがある)。
Q;エダは画家でした。その絵は我々が通常写真を撮るような場合を記録しています。
(シンシア・ベアット)いつも絵を描く誰かがいてほしいと思っていました。私は彼女を知らなかったんですが、彼女の絵は知ってました。
クック船長と乗務員たちはいつも漫画を描いていた。私たちは国会図書館の古い本を見て信じられないくらい美しい絵のイメージに夢中になった。それはきっと私たちが絵描きを雇った理由の一つではある。
(シンシア・ベアット)そこにいた人々全員が映画の最後に何かをもたらしてくれました。私はスーザンの夢のシーンを見たのですが、なぜそれを残したかというと、ファンタスティックだったからです。ガブリエレのシーンは、彼女が理解することの問題と関係について語っていて、私にはそれが素晴らしいシーンだと思ったんです。
(シンシア・ベアット)私が最も重要だと思うのは、人々がどのように互いを扱っているのかです。それは私にとって最悪なことなんですが、私はあそこの人々と同じようにしようとしても、できないことなんです。人々は寛容で、我々は互いにとても非寛容で、信じ難いほど罪深いんです。彼らには暖かさ、物事を共有している関係があるんですが、私たちの日常にはありません。誰かが他人に怒ればあけっぴろげですし、私がそれを抑制するのとは違って、人々も共有するんです。
もちろんそうした環境で我々は暮らせない。我々は孤立していて、プライベートなスペースがあった。それはまた政府の問題でもある。あの島には首長と村長がいる。でもジョージやアトキンのような村の老人たちは非常に影響力を持っている。ジョージの役割はほとんど首長と同じくらい、村長よりもずっと強いんだ。彼は最長老で、大いなる尊敬を楽しんでいる。そしてもし結婚や何かの決定や彼らがいっしょに寝るかどうかまで、年長者たちが助言する。その決定は実際ほとんど満場一致でなされる。直接的な反対はない。反対者の共存は間接的で均衡がとられる。
いくつかのシーンで、気づかれないようにフィルムを廻したくてそのことを人々に隠した箇所があった。でもそれらのシーンは映画の中に残さなかった。映画の他のすべてのシーンでは、彼らは撮られていることを知っている。彼らが行っていることは同意のもとで起こっている。
私が編集するにつれてこのフィルムはだんだんとシェイプされ、現在の長さになって、それぞれの物事の長さが今のようになったが、それでも島に6ヶ月生活していた感覚を直接または間接的に与えてくれる。そこに記録されたリズムは生活のリズムで我々とは非常に異なったものだ。映画全体はこの映画への私のフィーリングを注意深く表現している。私が間違っているかどうかわからないのだが、それは全く異なった生活、全く異なった世界、全く違った生活のリズムだ。そこには異なった惑星にいるようなフィーリングがあるんだ。
・・・歩くとか座るとかする時、そのリズムもまた本質的なものだ。人々はこの映画で島の生活のフィーリングを感じられるだろうか?このフィーリングを感じとるようなシーンが必要だった。そういうシーンでは我々の日常のリズムが見られるんだ。大きな出来事が起こって、もし誰かの鼓膜が破れたりボートが故障したり深刻な病気にかかったり、例えばシンシアの両足は酷く腫れてしまったが、そうしたことのすべてを見ることはない。会話の中でただほのめかされるだけだ。起こったことのすべては実際の映像には写っていないんだ。
(アルフ・ボルト、ウィリアム・ロスによる)
1977年雑誌フィルムクリティークは『島の探求』の企画台本を出版した。それは「民俗学的劇映画」といい、テキストと写真とニューへブリデス諸島の北の小さな島、ウレパラパラ島の地図からなっていた。「こんな島だとは思っていなかったなぁ」参加者の一人は深く青い海の中を島の大きく深い緑に向かって船が近づいていくにつれてつぶやく。出会いの挨拶と別れの挨拶は映画の冒頭と最後にある。彼らの仕事と引き換えに島の人たちはボートと金を交換する。彼らはココナッツを収穫してタバコや砂糖、マッチやスープや米、ビスケット、ビール、鮪やバッテリー等を買う。一人の少年がドイツ人の持っていたカセットを気に入り、最後に買う。これら子供たちは見過ごされている、辺り一面の緑同様に、朝早くビーチを歩いていると、見知らぬ人々のただ中でさえ感じる安心の感覚が、島の人々のリズムの遅さの中に漂う。
研究者の一隊は4人の女性と1人の男性からなる。彼らの目的は島についての本を出版することだ。地理、言語、習慣、社会状況はこれら若い研究者たちも共有し研究対象となる。観客は彼らの問いかけに加わる。彼らにとっての同じ謎が問いかけのパズルとして存在する。悪魔と色で塗られた帽子で行う習慣を理解しようとする熱心な問いかけ。そして木の根を掘って色を混ぜ合わせ帽子を彩ること、色鮮やかな昆虫、それは純粋な瞬間、撮影の瞬間である。彼らが鶏の鳴き声とともに住処に戻るとき、彼らを病に陥らせる重苦しい空気が流れてくる。島の人々はウレパラパラに来る前、珊瑚島では幸福だった。なぜ今はそうではないのか?彼らが生きる状況は貧しい。それは何を意味するのか?ここでは彼らは金のために働き日々を食いつないでいるだけである。彼らは重苦しい雲の下で生きている。雲はスーツケースのふたのように閉じられている。湾は風が流れ去っていく穴のようだ。
習慣と儀式はキリスト教の宣教師によって禁じられた。宣教師たちはこの地獄のような気候のために逃げ去った。今では政党が古い習慣を取り戻そうと試みている。それはニューへブリデス全土に広がり、原住民の人々の権利を代表するものになった。結婚の支払いとキリスト教的な式は埋葬のような悲しみに覆われている。古い儀式の習慣はダンスの習慣だ。
まずこの訪問者たちのための共同住居が建てられる。小さな子供がその前でヤシの葉の芯をむく。もう一人の子供が森からワナを運んでくる。子供たちは我々の意味するおもちゃは持っていない。彼らは遊ぶために何かを作るのだ。一つのおもちゃが作られたとき、しばしばそれ自体もうその子たちには価値がないときもある。
島の人々は屋根と言う言葉を使わない。彼らは家の「片方」と言う。ある人々は英語を話す。ニューへブリデスはイギリスとフランスの共同支配圏だった。研究隊の共用語はドイツ語より自然に愛情にみち自由な英語となる。親密で最も愛らしいシーンは子供がハンモックの中でシンシア・ベアットの弟に寄り添うシーンだ。彼も島の研究に参加している。
ヨリス・イヴェンスは中国についての作品で『島の研究』に近いことを行っている。彼は我々から遠く離れた世界のベールを取り去って、同時に中国の人々が我々と同じものにとらえられていることを見たのだ。これは不思議さの中に広がる絵画的側面を際立たせるエキゾチズムとは反対の態度である。ベアットとトーメはウレパラパラ島の人々を真摯にとりあげ彼らと島について学んでいる。この中で、彼らが自分たちの手順や困難や諍いについて表現する方法は、フィルムそれ自体の進展のプロセスを反映したものなのだ。
そしてまた、そこにはこの研究のリアルな映像がある。銀色と緑の水の島の中を運ばれていく木の幹はくりぬかれ、やがて太鼓に使われる。南太平洋の音楽とドラマーの一人のTシャツの「エアポリネシア」のロゴ。別のドラマーの髪に2本の明るい燃えるような真紅の花が山の深い緑に映える。夜の闇の中の黒い顔。悪魔の魂となまけもののサメの物語。深い森の山の鏡のような青緑色の海の境界線。「船が来たよ。」誰かが最後にこう言う。「君たちは去り、我々は残る。それだけだ。」
ペーター・ナウ、Der Tagesspiegel 1979年10月13日