introduction

我々は日常的に、映像と音を通して大量のインフォメーションを受け取らざるをえない時代に生きている。一方かつて映像と音を独占し長い歴史を持つ映画に関わる人々は、娯楽や芸術といったより小さな文化というジャンルに細分化されたコンテクストに閉じこもるようになっていく。

だが例えばメディアが発達するに従って一般的にますます重要なものになっている、受け取る映像と音が本当なのか嘘なのか(実はこの考え方がそもそも雑なのだが)という問題や見えるものと見えないものの関係の問題を、メディア・リテラシーといった分野以前に、さまざまな作品の中で提起し続けてきたのは他ならぬ現代映画の作り手たちなのである。例をあげるなら、1991年の湾岸戦争のためにクウェートの少女と油塗れの映像が流布される直前に、イラン映画においてソフラブ・シャヒド・サレスからアッバス・キアロスタミへの作品の移行のなかで何が問われていたのかを思い出してみれば充分だろう。

またすでに古典的な作品となっている映画であっても、例えばロベルト・ロッセリーニの映画は、フィクションを通じて、一定の時間の経過のなかで「しだいに、あるいは突然現われてくる」人や物事や社会の変化にフォーカスを合わせて観察し続けることの重要さを語っているが、それは各国間の戦争を含め、多様なメディアが存在するにもかかわらず即時的な反応によって物事が決定されてしまいがちな現代にますます求められる思考なのである。

それは本来映画人やシネフィルなどの専門的な観客よりも、むしろ一般に映像と音を使う生活にとって重要なことがらの一つであるにもかかわらず、我が国では小規模な娯楽として扱われている映画のさらに小さなジャンルに閉じ込められてしまっている。幼少時から動画を扱って生きていくことがごく普通となっていく時代のために、それらはより開かれた形で語られるべきだろう。

また、我が国では娯楽施設である映画館でほとんど上映されない種類の現代映画において、実際には映像と音に囲まれて生活する上で非常に緊急な多くの提案がなされているということを見過ごしてはならない。

このシネクラブでは本当にささやかではあるが現代映画とその映像と音が提案するものについて考えてみる。

index