イオセリアーニ

< 白い雲ただよう空に陽光きらめく黒白画面の、牛が尾をふり草をはむ野原や、昔ながらの古い家々の立ち並ぶ町並みで、恋の戯れを演じるカップルがいる。女の子の後を青年が追うとき、台詞はなくいかにも後から付けられた足音だけが響きわたり、またどこからか優しい縦笛の音が聞こえてくる。だがこのカップルをはじめ人々が突然住み慣れた場所を離れて一斉に新しく建てられた近代建築の殺風景な団地へと移住しはじめると、聞こえてくるはずの笛の音もまた金管楽器の騒々しい音へと早変わりする。その団地の一室に運び込まれた家具の山を見て、カップルは夢見ていた新しい生活が急に色褪せたものになっていくのを感じ、途方にくれている。結局彼らはその家具を次々に窓から放り出して元の暮らしに戻っていくと、背景の調べもいつのまにかまた元の笛の音に戻っていく。

オタール・イオセリアーニが1962年にソ連の映画作家として撮ったデビュー作である中編『四月』の台詞のほとんどないサウンドのギャグを見ていると、観客はもちろんジャック・タチのことを思い浮かべるだろう。だがすぐさま忘れられたもう一人のグルジアの映画作家、『傘』や『結婚』の短編作家で最近新作『オン・ザ・ロード』を撮ったミハエル・コバヒーゼのことを考えて見るかも知れない。トーキー映画なのに、あるいは「であるがゆえに」台詞によって国境を捏造されてしまった映画のサウンドトラックを作り直そうとする試みは、60年代の雪解けの時期に現れたソ連の映画作家たちの主要な関心だった。セルゲイ・パラジャーノフは傑作『ざくろの色』によってその頂点を極めたが、その代償として強制収容所へと投獄されてしまった。1968年にイオセリアーニはそれより一見ずっと牧歌的で穏やかな『落葉』で国際的な成功をおさめ、続いて同じく今回上映の『歌うツグミがおりました』を1970年に発表する。

『歌うツグミ・・・』は一人ののらくらな生活を送るオーケストラのティンパニ奏者ギアの話だ。遅刻常習、自分の演奏が終わるとそのまま会場を抜け出し仲間や女の子と遊びに行き、終演の自分の演奏時間ギリギリに戻ってくる綱渡り生活。皆も呆れながらも憎めないキャラクターの彼を追い出せない。あちらからこちらへと一つの場所に落ち着くことなく動き続けるギアの一日にキャメラは追いかけて行く。このように一人の主人公がさまざまな場所に行き、さまざまな人々と出会うことでシーンを作って行く方法は、60年代の東側の映画に数多く見られたスタイルだ。これは例えばポーランドではアンジェイ・ムンクの『エロイカ』の場当たり的な生き方が強制収容所行きという悲劇に行き着く主人公からイエジー・スコリモフスキー(そう言えば今年の秋パウロ・ブランコ製作スーザン・ソンタグ原作の『アメリカにて』を撮るとか)の『バリエラ』や『出発』、最近作の『フェルディドゥルケ』のさまようティーンエイジャーまで、大状況の変化のなかの主人公が覚える不意の寂寥や悲哀といったものを痛切に際立たせる名作群に通底し、ゴダールの『気狂いピエロ』さえその潮流のなかにあったと思われる「当時流行の」スタイルなのである。

『田園詩』を最後にソ連では撮影できなくなったイオセリアーニは1979年に文化使節としてパリに行き、そのまま帰らなかった。そしてフランスで現在のスタイルを確立する。『蝶採り』『群盗、第七章』はビターテイストのイオセリアーニ・コメディの頂点と言うべき2作であろう。『蝶採り』でイオセリアーニ自身が扮するロシア軍人の幽霊が老婦人をあの世に招いたり、テロリストが仕掛けた爆弾が炸裂したり、眼鏡にスーツ姿のバブリーな日本人が大挙して来襲してきても、彼らは笑えこそすれ悪役ではない。『群盗、第七章』ではほぼ全員の登場人物が、一応上映される映画の中、という設定とはいえ暴虐の限りをつくしたとしても、イオセリアーニの手腕にかかるとそれが笑わずにいられないのだから不思議なものだ。特に『群盗、第七章』はソ連から追い出され内戦勃発の報を異国の地で聞かなければならなかったイオセリアーニによって滑稽さと悲しさが入り交じった眼で回想されるグルジアという国のポートレートであり、その不条理な体制の元で生きなければならなかった人間への讃歌でもある。また以前にも書いたがアレクセイ・ゲルマンの『フルスタリョフ、車を!』とともにソ連というシステムへの最良の風刺喜劇でもあるのだ。

グルジアは現在シュワルナゼ体制を倒したサアカーゼ政権のもとコーカサス地方の石油ルートの利権をめぐってアメリカとロシアの均衡の上で相変わらず悲喜劇を演じつつあるようだ。かつてグルジア映画の黄金期を支えた人々が外国で撮るか活動をやめてしまっている現在、『群盗、第七章』の続きが再び祖国で撮られることはないだろうか?『四月』や『歌うツグミがおりました』を見ながら、かつてのグルジアフィルムを偲ぶだけというのは何かやりきれない思いがつきまとう。

(初出ラティーナ2004年6月号)


©Akasaka Daisuke

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