『クレーヴの奥方』

文学の映画化の話になると、21世紀になってもいまだに日本では「扱われている文学の話はしても映像については言及しない」ことで済ませようとする人々の言葉でいっぱいだ。いまや映像イメージによって政治経済までが動かされているのが常識で、そのイメージが相変わらず言葉や事物に従属していると思っている時代遅れな人々が「しょせん映像なんて・・・」とか言っているうちに自らの周囲を取り巻く映像に操作されてなすすべもなくなってしまうのが現代だというのに。

例えばプルーストの『失われた時を求めて』の最終巻をラウル・ルイスが映画化した『見出された時』の場合、このチリ出身の映画作家がフランスで60年代に一時期もてはやされたが今ではすっかり忘れられて誰も語らなくなっていた、アラン・レネが『去年マリエンバートで』他で使っていたカメラと同時に物や背景を動かす手法(例えばカメラが部屋の窓をのぞくと外がバレバレのスタジオセットで、植木やハリボテの建物を大道具さんがウロチョロ動かすとか)や、ブニュエル『皆殺しの天使』のパーティーで同じ人間同士が何回も出会うたびに挨拶する技法(そこで時代が変わるのを示す下品な特殊メイクやエマニュエル・べアールがオバQみたいで笑える)とかをフランス人に思い出させようとして作った題材がたまたまプルーストだったという映画に思える。ちょうどSMAP中居正広が田宮二郎をリメイクしたようなドラマのエンドタイトルセットに似た装置のなかを主人公マルセルがふらふら歩いて行って最後に海辺へとカメラが近づくラストがアラン・ロブ=グリエ『囚われの美女』の幻想シーン(マグリットの絵の向こうでナチが吸血美女を捉える)みたいで、なぜロブ=グリエ本人が出てるのかわかるし、そう言えば映像自体撮影のアルゼンチン出身のリカルド・アロノヴィッチが昔手がけたボルヘス原作ウーゴ・サンチャゴ監督『はみだした男』(ドゥルーズが推薦文を書いていたことなどもう誰も覚えていない)みたいな・・・など、南米知識人を植民地化したヨーロッパ文化の中心であるフランスの代表的な文学を、いかにもヨーロッパ的と言われた手法を使ってそれっぽく映像化した快挙/フェイクという感じだ。

さてポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』もただ現代にフランス古典文学を置換えた映画ではない。まずオリヴェイラ映画にお馴染みの「映画=カメラ前の劇の上演と時空間の出会いのドキュメンタリー」という側面は依然として変わらない。だから導入がロックスターのペドロ・アブルニョーザのライヴでも,次のシーンでは出演者たちがいきなり17世紀の古典劇を演じている。そしてこの奇妙な演劇にアブルニョーザの演じるスターが実名で登場し、人妻キアラ・マストロヤンニと心の中では相思相愛なのに女がなぜか彼を避け続けるため、スターがステージ衣装のままストーカーになって町中をウロウロするという荒唐無稽な展開へと発展するのだ。

さらに貞淑な人妻が抑えきれない愛を『アブラハム渓谷』のレオノール・シルヴェイラ演じる修道院の尼僧(!)に告白するという大時代的な展開にも関わらず映画が感動を呼ぶのは、役柄を超えた演じることの記録たる映画を作者たちが信じているからだ。いつものシンメトリックな絵画的構図と時間の連続性を厳格に守り白熱する劇が、秘めていた愛を切り出すマストロヤンニの長い独白に尋常でない緊迫感を醸し出していくシーンは必見で、そこには古典を演じる人々がまぎれもなくそこにいたというかけがえのない瞬間を映像に刻みつけ、それを再発見し続けるという現代映画の役割をも見出すという至芸を成し遂げていることを確認することができる。

このように作る方が従来の映画化というイメージを批判しているのに見る方が呑気にもとのままでどうすんの?って言いたいとこではある。

(初出 月刊ラティーナ2001年6月号)


©Akasaka Daisuke

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