『Mの物語』

ジャック・リヴェットの『Mの物語』はブニュエルの『昼顔』のような夢のシーンから始まる。隠者のように生きている時計職人ジュリアン(イエジー・ラジヴィオヴィッチ)が公園で70年代風の服を着た女マリー(エマニュエル・べアール)と出会うシーンだ。リヴェットの映画を見続けてきた人ならマリーの服はそれが見た目の異様さとともに、この映画が70年代に企画されたジェラール・ド・ネルヴァルの詩にアイディアを得た『火の娘たち』という連作の未完だった1本をなすものだということを思い出すだろう。完成された2本『デュエル』『北西風』は、ボルヘスやビオイ・カサーレスらをリヴェットに教えたというアルゼンチン人エドワルド・デ・グレゴリオとイタリア人マリルー・パロリーニが脚本を担当し、宇宙人(?)や魔法使いが出てきたりとフランス映画で最も神秘主義的・幻想的な傑作だった。それから30年近く経って完成されたこの『Mの物語』はパスカル・ボニゼールとクリスティーヌ・ロランという現在のリヴェット作品のチームによる脚本であり、幻想的ではあるもののよりハートウォーミングな古典的アメリカ映画、ルビッチやディターレ、または面白いことに現在リヴェット自身否定的なジョセフ・L・マンキーヴィッツの『幽霊と未亡人』にさえ近いものになっている。

ジュリアンは現実でマリーと愛しあうようになるのだが、まもなくマリーは不思議な行動をとりはじめる。ベッドを共にした後で消えてしまったり、ジュリアンの家での同棲には同意するものの、二階にこもって何かの準備をするかのように内装を変え始める。一方ジュリアンは中国の絹製品を偽造しているマダムX(アンヌ・ブロシェ)の証拠をつかみ、金を要求するが、マダムXは証拠よりも妹の手紙を返せと言う。明らかになるのは・・・実はマダムXの妹は「黄泉がえり」であり、そしてマリーは・・・。

雰囲気は溝口健二の『雨月物語』よりもリヴェットの友人、故フランソワ・トリュフォーの『緑色の部屋』に近い。二人ともしばしば偏愛を語っているヘンリー・ジェイムズの文学に描かれる「生者たちのなかの死者」や「けして伺い知ることはできない他者の深淵」の世界だ。ジェイムズは、他人とは文学が描写すればするほど曖昧になり不可思議になるものである魅惑について書いていたのだが、リヴェットはその長い描写を画面の長さと演出に変換する。いつものとおり驚くほど複雑な、今回ちょっとオットー・プレミンジャーの映画を思い出させるウィリアム・リュプシャンスキーの移動撮影を伴って、リヴェットの映画は出来事とそれが起こるまでの時間を一体として描く。だから彼の映画についていくには一つのシーンが始まったら演劇をリアルタイムで見ているように、それが終わるまでは時間の省略はなされない原則を頭の隅に置いていればよいのだ。そうすれば音楽はいっさい使われない、時計の音のみが響くジュリアンの家で、場合によってはまったく音が消え去り、あの世とこの世、現実と夢が交錯し、不意に原則を破る省略や繰り返しの描写が起こるマリーとジュリアンの感動的な別れのシーンをほんとうに味わうことができるのだ。

そしてこれはマリーを演じるエマニュエル・べアールという女優が最も可愛い映画だ。ジュリアンの前の彼女に嫉妬してタンスに残っている大柄な服や靴を試したり、ジュリアンのキスを拒んで突然ソファに体を丸めたり、出てきてしまったジュリアンの家に戻ろうかどうしようかとホテルの前で切なげに眉を寄せたりする姿は、その長い時間のおかげで、今までの映画で見た彼女の姿を思い浮かべさせる集大成であり、しかも間違いなくリヴェットとの前作『美しき諍い女』より以上に、感動的なものになっている。

ところでこの映画のラストシーンを見る観客は、それを現実ととるのか?ブニュエルの映画のように、マリーの霊が見た夢ととるのだろうか?前作『恋ごころ』に続くジャズ(ブロッサム・ディアリーのヴォーカルで「燃える初恋」)の決めは古典的なラストを開かれたものにするように見える。

(初出ラティーナ2004年7月号)


©Akasaka Daisuke

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