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ハルーン・ファロッキ

1、テレビにおいて、1991年の湾岸戦争はその前後の戦争と非常に異なって現われた。それは標的を目指すミサイルの撮ったイメージを通じて空から見られたのだ。戦争が進歩する一方、ポール・ヴィリリオはそれが表象される方法についての本を書き、その後の数年間は、そのイメージが繰り返し再生され、それについてコメントされ続けた。しかしこの戦争は継続する印象を残さなかった。交戦の最後にジョージ・ブッシュは極端な高支持率を喜んだが、1年後に彼は再選されなかった。

2、「人々は「リアルタイム」について語るが、あるプロセスのコンピューター・シミュレーションが、我々が現実の世界と、コンピューターの外での同じプロセスと同時である時、それらは同じ長さがかかる。リアルタイムはミサイルの頭脳を占め、両方は同期して実際のミサイルの飛行を導く(どのようにプログラムされているかによるが)。リアルタイムは、どのようにミサイルが飛行するかを決定するプログラムがシュワルツコフ将軍の部隊のコンピューターで働き、そのスクリーン上のミサイルがプログラムされたターゲットに達すると実際のミサイルと同時に爆発する時を一致させる。それ以上の何もなく、ライヴな伝達装置とともになされる何ものもない。

ミサイルの炸裂する映像の大半について、私はそれらが標的に誘導されるミサイルのイメージなのかコクピットのスクリーンに写るパイロットの見たイメージなのか、コマンドHQのコンピューターのスクリーンのイメージなのかを答えることはできない。もしそれが撮影された爆弾のイメージなら、それがスクリーンに現われた時、我々は爆弾とリポーターの間の究極のアイデンティティを体験する。(それは爆弾と射撃のプロセスに巻き込まれる観客の間のアイデンティティではない)我々はスクリーン上の射撃のプロセスに巻き込まれるばかりではなく、実際我々はミサイルが炸裂するリアルタイムのイメージの標的なのである。撮影されたものとシミュレーションされたイメージを見分けるのが不可能な時、それは空間座標から移動させられたイメージであるだけでなく、イメージの質は架空のものになる。

リアルタイムのプロセスの間、我々は歴史的なものとして存在することをやめ、実際は生物であるにしても、コンピューター・シミュレーションのなかに捕らえられる。コンピュータライズされた戦争のイメージはシミュレーションされたものと現実の出来事の違いや、歴史的な時間と技術的/電子的にシミュレートされた時間の違いを消滅させる。
我々がそれを見る時間とは何か、また何が、またどれほど占有しているのかを決定するのは潜在的に不可能になる。爆弾が撮影されているのと同時に、そのためにイラクで死んだ人々はシミュレートされたものとしてすでに機械的にカウントされていた。軍の検閲は、それがどこであれ、我々にはこの種のもの以下のものしか見せることをしなかった。これが意味するのは、「真実のイメージ」の消滅であり、歴史の証人を耐える器官としての瞳を消滅させることなのだ。」(クラウス・テヴェライト、letter international No2,1991)

3,巡行ミサイルには記憶された標的のエリアに関するデータがあり、キャメラを使って自らの位置を撮影する。それは現実と、仮定されたイメージ、標的一致の認識パターン・プログラム、特に田園や都市の風景のフォーメーションを比較する。
カールスーエのフラウンホーフェル・インスティテュートの開発した無人車のナビゲーション制御装置はまさにこれと同様に機能する。地図上のデータに基づき、(そのシステムである)GPUは車の現在位置を特定するが、それはキャメラに付き添われている。パターン認識プログラムはフリーウェイのマーキングを読み取り、もしマーキングがなければ、カーブの石や街灯を読み、さらに誤った色の標識一致をしてしまう。

共同作業の能力のあるロボットは現在ミュンヘンの工科大学でテスト中で、これもまた同様に働く。自動システムの名のもとに動くこれらのロボットには、キャメラ・アイが取り付けられ、記憶された空間的データと彼らが「見る」ものを比較する。地面のプラン、部屋の家具の位置などをだ。それらは他のロボットの位置や人通りのような偶発的な事柄を後者に付け加える。カール・マルクスによるとミツバチの規則的な行動を労働者に当てはめるのは恥ずかしいことだというが、後者の優位性は自らの行動を計画立てられるところに由来する。そしてこれはまさに自律性のあるロボットがすることであり、彼らは実行する前に表象システムのなかで運動をシミュレートできる。

4、ウテ・ベルンハート/インゴ・ルーマン(Computer im Kreig;die elektronische Potenzmaschine-「メディアとしてのコンピューター」キットラー/ボルツ/ソールン編収録 1994)によると、例え標的に向かうときのミサイルが写すイメージが究極的に効果的で多くを語っていても、このイメージは新しい兵器のそれではない。この戦争で使用された「知的な」大半の兵器はヴェトナム戦争で使用されたものとまったく同じ機能のレーザー誘導爆弾なのだ。

他の言葉で言うなら、これは新兵器の使用と関係なく、むしろヴェトナム戦争と違ったイメージのポリシーの公布なのである。後者において基本となるものは、例えば南北ヴェトナムの国境をモニターする電子壁の試みのような、電子的戦争を統御するために導き出されたのである。しかしそこに見られるのはまるで戦争を統制するような小競り合いに従事するための小さな装備である。
レーザー誘導弾においてセンサーはレーザー光線を追い、単純なスイッチが爆弾の翼を操作する。これはかつて第2次大戦で使用された誘導ガイダンス・システムのさらなる改良版である。そしてそれは決して正確ではない。シュワルツコフ将軍は湾岸戦争においてイラクにおいて橋を爆撃するため24発の爆弾が必要だったと報告した。湾岸戦争のイメージは、コンピューターが戦争の製品であり、民間の必要から生まれたのではないという事実を思い出させる。

湾岸戦争で我々を驚かせたイメージはただC3Iサイクルが現在世界を通過していく小さな部分でしかない。C3Iは命令、コントロール、コミュニケーション、知的であるためのものである。グローバルで戦略的な初期の警告システムは、耐震性のレーダーセンサー、方向発見ラジオ、敵からのニュースをモニターするシステム、全部隊を分裂させる伝達機を装填し使用する監視場である。今日、それは何キロトンもの強力な爆弾よりずっと重要なのだ。

戦場で展開する偵察システムがかつてないほど多様化しているのは、もし片方が遥か彼方から敵の第2派と戦いたいとき、敵がどこに位置しどんな兵器が攻撃できるかを知る必要があるためだ。監視/標的/攻撃システム<JSTARS>のようなシステムに援護された衛星、爆撃機、リモート・コントロールされた赤外線とヴィデオセンサーつきの自主的なレーダー収集網がある。これらのデータは戦場で様々な状況を評価し分析するシステムの一部であるコンピューターに送られる。ここから、関係するインフォメーションはあらゆる兵器システムをコントロールするコンピューターを通過する。

これが可能にするのは,いかなる場所にいる個々の兵士の位置をも数メートル以内に特定し、スーツケースのサイズの適当な装備によるヴィデオ機材を通してインフォメーションを彼らに送ることができる。このグローバルC3Iシステムは、サイバーシステム上に長年考案されていた、軍事戦略家の丘のようなものを構築した。これは湾岸戦争への批判的コメントとはまったく視点が異なる。我々が見たのは膨大な映像の一部なのだ。C3Iシステムの目的は独立して行動したり司令官を「そこにいさせる」ことではない。目的は司令官の命令を戦場で「上映する」ことにあるのだ。「この背後にある思考とは、よりよい軍事行動とはコントロールされ政治的に見積もるのが容易だ、ということだ。」

5,クラウス・テヴェライトは「撮影するミサイル」について語る。この装置はまた「ハラキリ・キャメラ」と記述できるものだ。ただ一つの最後のイメージを目指すキャメラ。それはこんなふうに繰り返しているようだ。「映画を撮るために、誰かを殺す準備をしなければならない。また一つのキャメラをセッティングするために死ぬ用意をしなければならない」

ここで私が企てているのはパラレル・モンタージュであり、2つのイメージを比較することだ。「歴史的な時間」のイメージと「技術的/電子的な時間」を対照すること、マス・データとモデルの比較、機材に装填されたイメージとリアルな状況のイメージである。
1920年代には、パラレルな、あるいは対照するモンタージュは真にイメージを結び付けるものと考えられていた。その後、この技術への熱狂は消滅した。ある比較において、ある1つのイメージにおいてハイライトをなすコントラストはすべてあまりにくだらないものに変わってしまった。ここにあるのは似て非なるものだ。

6、「変換」の問題はまたモンタージュのタームで熟考されうるかもしれない。この単語は真の信仰への変化のプロセスを導くために使用されるが、主に平和運動のものとなり、今は軍事製品の平和利用をもたらしている。原子力の「平和利用」は、ただ核物質を処分するのがいかに困難かを示しているに過ぎない。もし我々がステレオサウンドのような軍事的発明がいかに戦後のエンターティンメント産業を支えたかを考えるなら、「武装から非武装へ」という理念はまるで維持されていないのだ。

東側の終焉とともに軍事技術の予算はカットされた。今日、C3Iに関わった合衆国の多くの会社は非軍事産業の市場へ、特に警備や監視モニターの製作の分野に進出している。もし湾岸戦争のイメージが、インフォメーション・テクノロジーの力を誇示するイメージのプロパガンダだったなら、同じことが非軍事の分野にも言えるだろう。
我々はミサイルが爆発するのを見て、これは他国を征服してその首都を破壊するという問題ではないということを理解していない。破壊のイメージにおいて、インフォメーション・テクノロジーは旧世界よりも広大な見とりを提供する新大陸のようにそれ自体をも表象する。そこにはより多くの活動、より多くの富があるのだ。

訳;赤坂大輔

(ファロッキ監督より許諾後、上映当日配布された。 転載禁)