メディアと倫理とおとぼけオーギュスタン

和田伸一郎「メディアと倫理 画面は慈悲なき世界を救済できるか」(NTT出版)は、厳密には映画の本ではない。しかし、ようやく「文化」や「娯楽か芸術か」という古臭い二者一択にとらわれることなく現代における映画のポジティヴな社会的位置を語る書物が 日本でも登場してきたことの喜びの感情を抱かせる。と同時に、そのフランス的な文脈〜映画論者たちもまた依拠しているゴダール〜セルジュ・ダネー、ヴィリリオ、ドゥルーズら〜に共通するある「弱さ」を感じさせる本でもある。

この書物は、世界に対する退きこもりと連れ戻しというゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』の寄せては返す波を想起させる二つの運動を考察する。世界の残酷さを安穏とした茶の間で見ることの恐れと世界から疎外されることへの無力感(テレビによる視聴者の見捨て去り)が「見ることの放棄」として視聴者の世界からの退行運動に手を貸し、さらに個室化した装置であるインターネットがそれを促進するとともに無責任さと暴力を蔓延させるのに対して、人は現代映画を見ることによる存在としての自らの確認と世界へと連れ戻す運動と信仰による救済、さらには公共空間への参加による社会への責任意識の保持によってそれに抵抗することができる・・・その最も力強い部分は、ハイデガーを援用しながら人が「存在者」として世界とつながって生きることができるとしても「存在」として棄却されてしまう乖離が起こるテレビを語る部分(p42〜48)とその逆に「存在者」として不幸でも「存在」を世界の中に認める映画を語る部分(p102〜106)であろう。

こうした多メディア時代の到来した社会における新たな映画の位置を見出す作業は本来映画業界の側からもなされる必要があったはずなのだが、当の映画業界が「娯楽」や「文化」や「映画」の狭いジャンル内にしか関心がなく、世界から退きこもっているためにいっこうになされなかったのである。だからこういった書物が提供してくれる視座が退きこもっている映画に関わる言説を世界へと連れ戻す契機になることも期待されるわけで、歓迎こそすれ拒むことはないだろう。

だが時として「映画が支配する時代には画面を構成する作家の倫理を信頼すればよかった」(p76〜77)のように誤った記述が見られるのも確かである。もちろん監督を作家として顕揚したヌーヴェルヴァーグの人々以前は社会的にそんな時代はありえなかったし、少なくとも日本ではそんな社会的認識が一般的だった時代などない。(個人としての戦争責任ではなく)メディアとしての映画がいかに戦争に加担したかを考えれば、この記述はいささか古典映画時代を理想化しすぎていると言えるだろう。現在テレビ局が製作に加わって多くの観客を集める映画は古典映画の悪い面に加えてこの本で記述される視覚誘導的/情報的なテレビの特徴を備えている。我々が画面に注ぐ自分の視線のあり方について反省する機会を持つことができるのは、(12)で述べたように、ただ現代映画とともにあるときだけである。
また「現代映画による救済」のドキュメンタリー的な映画の例として是枝裕和『誰も知らない』が取り上げられているが、どんなにこの映画の子供たちの振舞いが「自然」に見えても、この本で依拠されているユセフ・イシャグプールの「現代映画」の定義から見ると適当ではない気がする。実際画面の詳細な分析がなされていないのだが、物語を前進させる箇所でこの映画は必ず古典映画が虚構空間を維持する切り返しの編集が使われているからである。稿を改めて述べたい『エレファント』のガス・ヴァン・サントについても言えることだが、つまりそこでは「救済」のそれらしいイメージにこだわり、情報批判に関して映画の「ポテンシャル」を十全に引き出すような作品について語られていない気がする。

そもそも映画は「救済の場」といった消極的なイメージにとどまるものだろうか。現代映画では、(1)で取り上げた作品のように、救う人も画面さえもない作品が強力な情報批判たりうるのである。そして実はそれらを「誰も知らない」ことこそがメディア批判を力強く語れないことにつながっている。「倫理を欠いた画面が大量に生み出されようとも、それを判断できる感性が個人個人が持てればいいのだが」(p77)という弱々しさは、偉大な情報批判の映画が日本のスクリーンから遠ざけられていることから来るように思われる。2001年山形国際ドキュメンタリー映画祭の折り審査員でもあったベルナール・エイゼンシッツ氏(ゴダール『映画史』の協力者でドイツ映画史についての著作もある)と話す機会があったのだが、彼は(1)(2)で取り上げたドイツの映画作家たちはフランスで全く見ることができないと語っていた。例えばペーター・ネストラーについてジャン=マリー・ストローブが「ゴダールでさえこんなことはできなかった」とまで言い切っているのに、である(1)(その後ファロッキの特集だけは組まれたが、アメリカと違って日本同様関心は呼ばなかったようである)。この本でしばしば引かれているスーザン・ソンタグも「配給が断たれること」が共通体験の断絶〜DVDによる個室への退きこもりへとつながる映画の死について語っている(2)。そして「より徹底的な映画」として取り上げられているペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』の配給に関わった者として、映画祭で上映された当初全く買い手がつかず、帰国した作家本人から「日本で絶対に配給してほしい、支払いはプリント代だけでよい」(契約時にはよりよい条件で落ち着いたようだが)とのメールを受け取りいくつかの会社を訪ねたりビデオを送ったりして断られたあげく結局映画祭を運営する人々自らが配給せねばならなかった経緯を知っている者としては、上映し提供する側が「文化」や「娯楽」「芸術」という古いフィールドに退きこもっている限り、テレビに載せられる程度の視覚優位的な作品ばかりが配給されてしまうだろうと思う。※

1990年代初頭、まだオリヴェイラさえ紹介されていない時代にポルトガル映画を見にリスボンまで行くと話しても誰にも相手にされなかったものだが、そこにはオリヴェイラ〜アントニオ・レイス〜モンテイロへと至るサラザール独裁政権の視聴覚コントロールへの抵抗の歴史があった。そしてそれらは革命後のリスボンの映画館でさえほとんど公開されなかったのである。『ヴァンダの部屋』はその流れを汲む映画なのである。それはナチス時代に対するメディア批判の方法を育んだ(1)(2)のドイツ映画たちと同様の力強さがある。考えてみると、フランス的メディア批判の弱さとは、皮肉にも第2次大戦中に被占領国「でしかなかった」ことに由来するのかも知れない。

例えばアンヌ・フォンテーヌの『おとぼけオーギュスタン』とその続編『オーギュスタン 恋恋風塵』を比べてみると、前者はゴダールが「アサイヤスの10倍よい」(3)と賞賛したように、監督の弟演じるポルトガル系駆け出し俳優オーギュスタン(後ろ姿がどこかモンテイロに似ている)がホテルのボーイ見習いを演じるシーンでは、フィクションの人物が外側の現実と接触しフィクションを危機に曝す、初期ヌーヴェルヴァーグが持ちえた瞬間が実現されている。そこでオーギュスタンは中国人のメイドの女性を手伝って働きながら恋する一部始終の時間が、バストかミディアム・ショットの手持ちキャメラによってときに振り付けられたらしい二人の動きがフレームから出てしまいそうになる危うい感覚と共に見事にとらえられている。
これに対してその5年後に撮られた『オーギュスタン 恋恋風塵』は、マギー・チャン、ファニー・アルダン、パスカル・ボニゼールら豪華スターが出演した続編であるが、冒頭の公衆電話で流暢に交渉するオーギュスタンのクローズアップから危うさがなく、いきなり凡庸化してしまっている。マギー・チャンが演じる針灸師が主人公の顔じゅうに針をうつシーンを前作のホテルのシーンと比べると、セットの予算もかかりキャメラや照明も洗練された代わりに外側への意志と言うべきものが消えてしまっている。だがおそらく一度たりとも「この映画はどうなってるの?」などと不安を抱かせないこの続編のほうがテレビの視聴者向け映画なのである。それは、フレームの外に広がっている世界への想像力を殺してしまう。

フランスの現代のドキュメンタリー的な劇映画は、『おとぼけオーギュスタン』に見られる、いわゆる初期ヌーヴェルヴァーグ的なフィクションの登場人物が外部の世界と接触する危機という冒険を生きるジャック・ロジエと、作られた虚構空間を演技者がまるで自然であるかのようにふるまい「あたかもキャメラや演出などないかのような、目で見た真実に到達するようだ」(4)と語られるモーリス・ピアラの間にあると言える。『誰も知らない』は虚構空間を危機に曝すのではなくいかにそこで自然に振舞うのかを追求する点で後者の映画すなわち古い時代の映画の流れを汲むものだろう。現在のフランス映画を語る日本語の文章が皆どこか滑稽に思えるのは、それらの大半が影響を受けているピアラへの位置付けを執筆者自身が避けているからである。処方箋としては、それはピアラが「フランスで唯一才能がある人だ」(5)と言うロジエとの対比のうちになされると思う。そこでは映画にとどまらず、あらゆるメディアにおいて人を操作する重要な要素である「自然さ」とは何か?といったことについて話しあえるはずである。両者を二本立てする上映を提案したこともあるのだが・・・こうした作家崇拝〜消費上映のフルコースとは異なるクリエイティヴな議論への無理解が映画の「ポテンシャル」を引き出すことを妨げているのである。

(1)http://www.shomingeki.de/shomingeki%201.html

(2)http://www3.iath.virginia.edu/pmc/text-only/issue.901/12.1chan.txt

(3)ゴダール全評論・全発言。 奥村昭夫訳、筑摩書房、p622

(4)カイエ・デュ・シネマ・ジャポンス、p101。ノエミ・ルヴォヴスキによって引かれたアルノー・デプレシャンの言葉。『エスター・カーン』の前半の家族の描写は『愛の記念に』の家族を想起させる。またクレール・ドゥニは下記において「ピアラはすべてのフランスの監督たちにとって、トリュフォー以上のナショナル・ヒーローなんです。」と語っている。

http://www.filmmakermagazine.com/fall1997/awakenings.php

<追加註>また下記の侯孝賢『スリー・タイムズ』についてのカイエ・デュ・シネマの記事(日本語訳)に「彼がたびたび自らの師と認めるモーリス・ピアラ」との記述がある。

http://www.cahiersducinema.com/article620.html

(5)http://www.cndp.fr/cav/amours/2_DocLect_3_4_1.htm

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(2006.2.15)

©Akasaka Daisuke

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