OUTSIDERS 1

本日は諸々の事情から外国語字幕のついた作品上映となりましたことをお詫びしたいと思います。なぜそのようなご不便をおかけしてまでこの二本立てを上映したかったかということなんですが、先の東日本大震災と続いて起こった原発事故といった一連の状況に対して、現代の映画がいったい何をできるのかという問いに一つの回答を示すことができるのではないかと考えたことがあります。まず一本目のオランダ映画『Flat Jungle』ですが、1978年のドイツに接するフローニンゲン原発建設に対する(当時の)反対運動が最後に出てきましたけど、実際にはこの原子力発電所に反対する運動が全面的にテーマとして叫ばれる映画ではないんですね。次に上映される『Die Nordkalotte』はドイツ映画で、ムルマンスクという1990年撮影当時まだソ連があった頃のロシアの原子力潜水艦の発着地だった町が出てきます。確かにそれらは出てくるんですが、これもまた反核が主題になっているわけではありません。両方とも産業革命以後に起きたエネルギーの増大の帰結として核エネルギーに頼らなければいけなくなり、その結果膨大な環境破壊をもたらしている、といった捉え方をしていて、長い射程での批判なんです。ただそれによって言えるのは、この媒体である映画自身も批判されなければいけない、ということも言っていると思います。映画というものも発展段階において高度な資本主義社会の恩恵を受けていますし、現在も当然そうですから、それに対する自己批判的な視点というのが一つあります。



で、もう一つは、この二本がその中に分類されるドキュメンタリーというものへの批判です。いわゆるドキュメンタリーと一般的に言われているものの多くは、目の前に悲惨な映像ですとかショッキングな事件、扇情的なスキャンダルな映像や大惨事や戦争や虐殺なんかがてんこ盛りになっているような状態で、それはまあyoutubeのようなインターネットのサイトで検索すると山のように出てくるんですね。それを切り貼りして集めてときにはテレビ番組にすることがあるくらいなんですが、そういった自分や他人が悲惨な目にあった映像を目の前に出して売り物にすることへの批判ということがあります。ではどうするのかといいますと、普段やっている日常生活をどうやって撮っていくかということ以外にないんですね。二本目のペーター・ネストラー監督が言っていることなんですが、「日常生活の美しさをどうやって映画にしていくか」ということを行って悲惨な映像を売り物にすることへの批判をするということなんです。この日常を映画にするっていうことであるなら、日本ではドキュメンタリーよりも、小津安二郎が撮影所で日常を再構築しつつドラマを作るという作業の中でやっていたことなんです。でもドキュメンタリーの場合主題が常に現前することでどうしてもそれを売り物にするということになってしまって、それをどうやって回避するのかということなんですね。それを今回一見反原発を主題にしているようであるがそうではない(実はそれを超えている)映画を見ていただき、考えていただければと思っている次第です。

次にこの二人の映画監督についてそれぞれ紹介したほうがいいと思いますが、まずヨハン・ファン・デル・コイケンまたはクーケンと表記されることもありますが、この人はもともと写真家で、17歳の時に最初の写真集を出して、後にフランスの国立映画学校でその当時IDHEC現在はFEMISというところに留学して二年通っているうちに映画も撮りたくなって映画監督にもなったという人です。初期の頃の作品はどちらかと言えば写真の影響を受けた言葉のない風景を淡々と撮った作品があって、デビュー作は『夜明けのパリ』で、パリの風景にジャズを流している作品です。その後『沈黙の瞬間』『フィルムメーカーズ・ホリディ』『Blind Child』や『パレスチナ人』、日本では『Big Ben』という作品が紹介されていますが、これはテナーサックス奏者ベン・ウェブスターを撮った作品です。このへんはいわゆる詩的な映像といいますか、同じオランダの年長の作家ヨリス・イヴェンスの影響を受けつつも違うことをやるんだという意志が見受けられます。その後『New Ice Age』のような「南北三部作』と呼ばれる移民を扱った作品等で社会的な文脈が色濃く出てくることになります。その後この『Flat Jungle』を撮るのですが、そのころフランスの有名な映画雑誌カイエ・デュ・シネマの批評家たち、特にセルジュ・ダネーが擁護したことで国際的にも脚光をあびることになります。ただ1980年代に入って病気になってから作品として評価はされているんですが、個々の作品としては以前ほどのインパクトはなくなってしまった感じです。でも皮肉なことにその後山形の国際ドキュメンタリー映画祭でも『井戸の上の眼』とか『アムステルダム・グローバル・ヴィレッジ』などが紹介されるようになります。ただ1990年代に入って『Face Value』という映画を撮るんですが、これはソ連崩壊の時期にヨーロッパの人々が何を考えどう生きているのかをさまざまな顔のクローズアップのインタビュー(ただし音声は画面と分離している)で綴った映画なんですが、これは感動的な映画でして、彼の後期の作品では唯一の傑作だと思います。その後2001年に癌のために亡くなるんですが、日本では同時代のフレデリック・ワイズマンに比べてちょっと忘れられてしまっている感じなんですね。コイケンのほうは1970年代までの作品なんかはかなり多くの文章が書かれたりしているんですが、日本ではそれらは紹介されていませんので、今回原発を扱った映画ということも口実としてありますが、また再紹介のきっかけになればと思っています。



次に上映するペーター・ネストラー監督のほうは残念ながら日本ではまったく紹介されていません。彼のほうはインターネット時代になってから国際的な評価が高まってきた監督ですが、実は1960年代初期から撮っていて、特に来週こちらで上映予定の、日本でも若い人たちを中心にファンが多いジャン=マリー・ストローブ監督をはじめ一部の人々に熱狂的に支持されていたんです。彼はドイツでは第二次世界大戦後のドキュメンタリーの新しい作家の旗手的な存在だったんですが一般には受け入れられず、1960年代終わりには仕事ができなくなってスウェーデンに移住して撮り続け、その後はドイツに戻ってきて作品を撮っていたんですが、2000年代になってやっと評価されてきたわけです。ウィーンやパリをはじめ今もベルギーで回顧上映が行われていますが、その準備のお忙しいさなか作品を貸してほしいとお願いしましたら非常に日本の今の状況を心配しておられ、快諾して下さいました。ただ字幕付のものがないということでそれは急遽の事情のためこれ以上どうしようもなかったんですが・・・それと最新作は『死と勝利』(2009)という、彼の祖父が貴族で人類学者でもありソマリアで飢餓民を助けて戦死しながら一方ではムッソリーニのエチオピア侵略に手を貸したんではないかという疑いもあるエリック・フォン・ローゼン伯爵で、彼を扱った映画を撮っています。それと次週(6月14日)上映になるのはストローブ監督の妻で共同製作・監督でやはりネストラーの友人でもあった、亡くなったダニエル・ユイレ追悼の作品『時の擁護』で、ドイツでのシンポジウムとストローブ=ユイレ作品の抜粋等からなる短編です。

それで、これからまだ二本目を御覧になるので映画個々の過剰な説明はできませんが、先の『Flat Jungle』のほうは舞台がワッデン海岸というオランダからドイツとデンマークにまたがる、つい最近に世界遺産に登録されたほどの自然豊かな海岸です。干潟の豊かな魚類が見られる場所ですが、これを撮った当時は環境運動が高まる前だったこともあって環境汚染が進行していて、漁業や畜産、農業も機械化と大規模化の趨勢にあって、その結果原子力発電の誘致というものが出てきていたんですが、転換期にある環境の中で人々の生き方を探った作品と言えるかと思います。ネストラーの『Die Nordkalotte』のほうは、これまたラップランドという北極に近い長細いスウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ロシアにまたがる自然豊かな半島の山の上から核投棄の海へと下っていくという作品で、昔ながらの暮らしをしている人々は衰退して、工業化、大規模産業化の生活を強いられる人々がやはりその影響で公害や環境破壊に苦しむようになる、という姿が現れてきます。高度産業社会の恩恵を貰っている反面その依拠するエネルギーのほうでは環境破壊を促進してしまうという我々の現状を描写しています(それに加えて産業革命が実現した過去の戦争の大量殺戮の歴史も言及されています)。ドキュメンタリーと言って皆さんがイメージされるのは目の前にある個々の点である事件や状況を撮るといったものかもしれませんが、そうではないのです。

そして映像的にはこの二つの作品は非常に対照的な作品になっています。『Flat Jungle』のほうは必ず一つの動きのあいだに別種の動きが入ってくるということがあります。例えばヒラメの稚魚がふらふらと貝のひらひらする触手を食べようとすると、その間に波のカットが挿入されてくる。その結果一つの動きからもう一つの動きにカットが動いていく形になります。カメラの動きも、手持ちのパンをする運動があちらからこちらへこちらからあちらへ、という動きで成り立っています。そして波の映像もただ海の波だけでなく、ゴカイの動き、吹き流しのふらふらとなびく運動があり、その波に類似する運動をちょっと音楽を奏でるように映画を構成しているのではないかと思います。で音楽は亡くなったウィレム・ブロイカーという人がやっていて、彼はフリージャズという枠内にとらわれないような音楽を作っていた人として知られていますが、コイケンという人もジャズが好きでよく二人で組んでいるんですが、映画自体もちょっとジャズに近いような、音楽のような構造になっているわけです。

一方ネストラーのほうですが、こっちは非常に長い遠くからの本当に見事な風景のカットが多いんですが(驚くべきことにテレビ製作のドキュメンタリーにもかかわらずほとんどがロングショットの映画なんです)、手前、中心、後に事物を配置するというか、そうなるポジションにカメラを置いているということなんですけど、そういう奥行きをとった画面をカットして次に移るときのタイミングがこれまた音楽的といいますか、次に繋げるというのは一つの画面には一つの音がついていて、もう一つの画面に変わる時には別の音に替わるんですが、それを意識させるようなサウンドの作業をしているということがわかるんですね。(またそれらは緑や動物が次第に空間から姿を消していくことで汚染を比較/提示することにもなります。)初めて御覧になる方がほとんどなので、果たしてそこまで感知されうるかどうかわかりませんけども、いずれにせよドキュメンタリーということで普通イメージされるような、ヴィジュアルやインフォメーションを伝えるだけの作品ではないということがあります。もう一つ言えるのは、産業革命以後を批判する同じテーマでも撮り方が変わればこれほど違う映画になるのかと驚かされます。それはまたよく言われるドキュメンタリーなんか皆同じスタイルじゃないかという意見に対しての反論でもありますし、二本立てということで違いを楽しむ、これほど重大な問題を楽しむというのはどうかと思われるかもしれませんが、あえて楽しんでいただければ、と考えています。もう時間が来てしまいましたが、そしてもしまた機会がありましたらぜひこの二人の作家の作品を御覧になっていただければと思います。

(2011年6月7日 同志社大学寒梅館クローバーホールで二本の作品の上映の間に行ったレクチャーに訂正加筆した。スタッフの皆様およびペーター・ネストラー、Medici Arts Internationalに感謝致します。)




©Akasaka Daisuke

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