エルマンノ・オルミ『ジョヴァンニ』

あの傑作『Gostanza da Libbiano』を撮った直後のインタビューにおいて、「今では映画館に行かないのだが」と断りつつパオロ・ベンヴェヌーティは「でもエルマンノ・オルミの『ジョヴァンニ』は見に行こうと思っている。」と答えている。理由は自分自身『ジョヴァンニ』の主人公の息子コジモ一世についての企画を10年以上暖めているからであり、かつオルミが従っている規範が自分の従っている規範と同じだから、すなわちそれは「ロベルト・ロッセリーニだ」からだという。オルミ自身何とバッド・スペンサー主演で撮った新作を伴った昨年のペザロ映画祭で、ロッセリーニの『鉄の時代』の製作に加わった時のエピソードを披露している。かつてそのロッセリーニが撮った、メディチ家隆盛を築いた老コジモについての作品『コジモ・ディ・メディチの時代』に助手として参加したベンヴェヌーティが果たしてその後この『ジョヴァンニ』をどう評価したか不明だが、この久々日本公開のオルミの近作はいろいろな意味で驚かされる映画である。

物語は16世紀初頭、神聖ローマ帝国と戦うローマ教皇軍騎兵隊の隊長「黒隊のジョヴァンニ」(この作品の後でマルコ・ベロッキオがブルガーコフを翻案した短編に出演したクリスト・ジフコフが演じている)の愛と死を、当時も今も変わらぬ政治家たちの計略と大砲という新兵器の登場という歴史的犠牲者として描くものだ。主人公の葬儀から始まる冒頭から当時の歴史的文脈の説明がナレーションで、他方登場人物たちはキャメラに向かって演劇さながら台詞を語りながらブルガリアで撮影された戦地に赴く騎兵隊を追う速い展開からして、人は『木靴の樹』『聖なる酔っぱらいの伝説』と異なる慌ただしさに面喰らうかも知れない。さらに戦闘シーンや謀略を企む人物、女と戯れる貴族など、彼の映画には今までなかった野卑な描写の数々にも驚かされる。ただ徐々ににそれがオルミの映画だな、と確信させるのは、夫ジョヴァンニと家に残した妻マリアの手紙が彼ら各々の日常の振舞いを画面に語られるとき、オルミ初期の傑作『婚約者たち』のシチリア出張中の夫とミラノの家で彼を待つ婚約者の手紙のやりとりを思い出させるからである。そしてマリアを演じるデシィ・テネケディエヴァの顔はすぐに『木靴の樹』の一家の印象的な、無表情でありながら包み込むような暖かい妻の顔に連なる。それはサンドラ・チェカレッリ演じる恋人・マントヴァの貴婦人との情熱的な愛の回想と美しい対照をなす。 

ジョヴァンニは神聖ローマ帝国との戦い以上に、戦争資金拠出を渋っているらしい教皇や、戦意喪失しつつある傭兵たち、果ては戦禍を恐れ敵と密通したり政略結婚の見返りに新兵器を敵に渡してしまう身内の裏切りによって追い詰められていく。野営中のジョヴァンニが甲冑を従者に脱がされながら、家臣に教皇宛の手紙を筆記させるとき、三者を素早いカットバックで描写しながら、ふと画面は鎧を貫通せず付着していた銃の弾が落ちるのを大写しで示すのだが、それはより強力な大砲の弾によって粉々に砕かれることへの伏線なのだ。そして戦場で傷を負ってベッドに横たわったジョヴァンニが裏切った人々すべてを赦し受け入れようとするカトリック的なプロセスは、いつしか『聖なる酔っぱらいの伝説』のホームレスの昇天への道と重なっていく。裏切り者と赦す者は視線を交わし合う。その無言の視線の交錯こそ最もオルミ的な瞬間である。そこで我々は、ある時代に生きて死んでいく人間というものの数奇さ、無情を感じることになる・・・。

ところでオルミ作品としては最も大作になろうこの作品、速い編集のリズムとストラビンスキーを編曲した音楽、息子ファビオの妙に審美的な撮影が、実は時折気になる微妙な味わいで後をひく。例えば銃弾が落ちるシーンはそれ自体見事ながら演出としてみると、何か過剰さが付け加えられているような気もするのだ。それを見極めるためには再びこの映画を見なくてはなるまいが・・・。

(初出 月刊ラティーナ2004年11月号)

©Akasaka Daisuke

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