DeathandGlory

正月キャメロンの『アバター』(『アビス』に遠く及ばない)を見た後でエリック・ロメールの訃報など聞いてフランス映画も終わったなと思い何か見る気など失せてしまっていたが、しかし同じ気持ちの人もなんとかジャック・ロジエに行ってもらいたいと思い直しながら、カイエ・デュ・シネマ1990年430号のインタビューでロメールがヴェキアリ(『ワンス・モア』は低予算ミュージカル映画の模範と言える作品だ)や既に死去しているズッカ、ダヴィラ、ビエット等をフランス映画の真の流れとして擁護したことや『逃げ口上』をリモザンではなくベルガラの作品と見なしていたことは何だったのかと思い出したりしているうち、何げに海外映画雑誌のゼロ年度ベストテンを見ると、ロメールのロードショー公開されなかった*『三重スパイ』(彼の最高作の一つ、ヒッチコックの『断崖』や『汚名』をロメール的に突き詰めて見直しを迫ることで消費に抗う傑作)がどこにも入っていなかったりして、「映画雑誌の時代は終わり批評の最良部分はネットに移行した」という意見はやっぱり本当なんだぁ、とついあまり信じていなかった説をフラフラと本気にしながら、ようやくリュック・ムレのやっぱり日本公開されなかった『死による名声』Le Prestige de la Mort(2007)を今ごろ見た。以前述べたようにこの映画はロメールではなくたまたまゴダールが同時期に死んでしまった(2010年1月20日現在のところこれはフィクションだ)おかげでムレ演じる映画監督が死を偽装して名声を得ることに失敗するというグダグダチープコメディで、プロデューサーに出資を交渉するファーストシーンでのカメラに向かってのヅラ付き「ダッフンだ」からして脱力を誘い、いつものように登山の準備をしながらゴミ捨てに荷物を捨て損ねるお約束のギャグに続き見るからに危険な斜面で足元をヨロつきながら登りつつ思いついたトマス・ハーディ「窮余の作」が下敷きらしいコスチュームプレイのシーンの朗読を録音したり夢を見たりする(もちろんそのくだらないアイディアは幻想として登場する)失笑シーンが続き、放置されていた死体というか明らかに人形(笑)を発見するあたりからハア〜と溜息が出てしまうのだが、ムレの凄さはそのくだらないアイディアを山まで行って、見るからに危険なカットとして自分だけでなく俳優を使って実現できるところにある。

ムレ自身はこの作品について既報のようにマルコ・ベロッキオの『結婚演出家』同様にセシル・B・デミルの『嘆きの合掌』が元ネタだと言っているが、何度も捨てられる死体(しまいには自分が死体に変装して脱出する羽目になる)と墓堀りのくだりはいやがおうでもヒッチコック『ハリーの災難』を見直さずにはいられない笑いに満ちており、ヒッチコックのブニュエルへの近さを気づかせてくれる。そしてベロッキオがサブストーリーとして使った「死によって名声を得ようとする作家」の話は「同じ日の死去で片方が日陰になってしまった」(ムレはチャップリンと同じ日に死んだホークスやトリュフォーと同日に死んだピエール・カストの例を出しながらインタビューで語っている)ストーリーに横滑りし、さらに成り代わった死者の犯罪を背負い込むことによってベロッキオの映画よりもピランデルロ「生きていたパスカル」的な自己同一性を巡る話になると思いきや、あくまでも軽いグダグダのギャグコメディに横滑りしていく。

いっぽうマノエル・デ・オリヴェイラは死ではなく長生きすることによって注目を浴びる人になってしまったが、それでも日本公開を控える二本『コロンブス 永遠の海』と『ブロンド少女は過激に美しく』は、前者が『アメリカ』とダニエル・ユイレへのオマージュというか『さらば夏の光』とか『やさぐれ刑事』を超えた最も感動的な観光映画であるのに対して、後者はブニュエル〜ルビッチの参照を超えて再び自身の70年代「フラストレーションの愛」の4部作の補注となるような笑劇で、例えばファーストシーンの列車の座席にいるリカルド・トレパ演じる男が隣席のレオノール・シルヴェイラに回想を話し出す俯瞰ショットでのふたりがまるで自分が目の前に写っているモニターに向かって話しているような視線の方向や、その回想の最初でトレパが道を隔てた向かいの家の窓に扇子を持った娘を見初めるシーンで当の娘からは丸見えでしかも他に誰もいない部屋でなぜか書類で身を隠そうとする身振りは、ただただ滑稽、掴みはOKで観客を離さない。

エッサ・デ・ケイロスの小説を現代で展開するストーリーに翻案したものであっても、『ブロンド少女〜』の画面と距離感はあくまでサイレント映画のそれである。例えば主人公が娘の家を訪ねる時、縦構図でとらえられた玄関から階段奥2階の部屋までを使った演出は、それが本当に自然にムルナウの時代にダイレクトに繋がるという点でやはり溜息しか出ない。例えば黒澤明が第2次大戦前のドイツ映画を参照していても(志村喬はヤニングス、西村晃はペーター・ローレ、『静かなる決闘』『生きものの記録』で病院は『カリガリ博士』になる・・・)その距離感は常にトーキーのそれだった。もっとも『白痴』では別の領域を見出しつつあった黒澤を表現主義やスタンバーグ、ガンス、エプスタインとロシアの間にある人としてとらえれば面白い見方ができるはずで、それに対して溝口健二はフィルムが残っていない『血と霊』から『女優須磨子の恋』〜『近松』という前ー上演の映画として見るとすると

*『三重スパイ』は2012年4月21日からロードショー公開された。

(2010.1.27)


©Akasaka Daisuke

index