小津について

小津の映画でお馴染みの会話シーンは二つの動きを感知させる。例の「見ている場所には相手がいないはず」という視線のズレは、絶えず観客に「これは映画なんだ、映画でしかありえないんだ」と語りかけているように思える。その一方で、一人がしゃべりもう片方に画面が移るとき、小津はけして動きが途切れることのないように配慮している。ズレの感覚がもたらす困惑に留まる暇もなく画面を追っていかなければならないため、私たちは黒と白と、カラー時代になってからは赤と緑と青の交替がどうなっているのかを見極めようとして、笑いとともにただ何度も映画を見直すはめになってしまう。

小津の映画にはノーマルスピードで見ていなければ掴みきれない何かがある。止めたりスローにして見ると消えてしまい、早送りなら見過ごしてしまうような何か。『秋日和』や『秋刀魚の味』の中村伸夫や北竜二や佐分利信や笠智衆が視線を動かし、しゃべる度に現われたり消えたりする何か。一つのシーンが終わると笑い声とともに廊下や外の空間が現われて、斎藤高順の音楽が大きく聞こえてくる。動きが途切れないように空間を満たす運動がそこにもある。これもノーマルスピードでなければ感知できないものだ。だから結局小津の映画は他者によって作られたこのノーマルスピードでなければならないものを忠実に再現してくれる場所である映画館を擁護している。それは他人のリズムを受け入れること、他者への敬意を自然に育むことへとつながっていく。

小津の映画は同じ俳優の同じ仕草の異なった組み合わせや、同じ俳優の異なった光の中での同じ仕草や、同じ俳優の・・・つまり同一に見えても実はその度に刻々と異なった世界との出会いである瞬間を定着させている。それは一見ステレオタイプの型にはまった同じ役を要求しているように見えるが、実は違う。それは長い時間の連作のうちに同じ人の変化を発見しようとする優れた方法なのだ。『東京物語』と『秋刀魚の味』の笠智衆。『東京物語』から『秋日和』の原節子。これは映画に限らず、日常をともに過ごす我々の家族や友人に向けられるべき視線のあり方ではないか?

もちろん小津の頃とは映画は変わり、人も技術も変わった。現代映画の巨匠、ジャン=リュック・ゴダールは『勝手に逃げろ/人生』以来スローとストップモーションを組み合わせて、ノーマルスピードでは見えなかった人や仕草の壮絶な美しさを引きずり出してみせる。ジャン=マリー・ストローブ&ダニエル・ユイレは『アンティゴネー』において、シチリアの円形劇場という同一の場所をあらゆる高さから撮影することの美しさを発見してみせる。それらはまったく異なるが・・・どこか小津の映画とつながっている。撮られることではじめて見えてくる何か、映画でしかありえない何かが。

(2005.6.24 南信州新聞 初出)


©Akasaka Daisuke

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