『恋するシャンソン』

映画の冒頭でドイツ将校がいきなりジョセフィン・ベーカーの声で歌い出すのを聴いたとき、「なんてケッタイなことするんだろう(笑)」と思い始めたときから、観客はこの『恋するシャンソン』の、普通の会話の途中でブツ切りのフレーズに合わせて口パクする俳優たちの芝居に呆れながら、この全編にある不自然さを体験することになる。いわゆるミュージカル映画と違って俳優自身の声がポップスのフレーズそのものに入れ代わってしまうため、男の声が女の声に、そのまた逆もあるのだが、この唐突な歌のフレーズの挿入と消滅の ギクシャクしたリズムに戸惑ってしまう。しかしこの「不自然さ」とは、実はアラン・レネの映画を改めて初期から辿り直してみると見えてくる「自然な」到達点のように思える。

レネはかつてインタヴューで「私はずっと動き続けているのに止まっているような印象を与える映画を作りたいんだ」と語っていた。例えば『去年マリエンバートで』は城でのカップルの例の対話が果てしなく続くのだが、その背景は屋内から屋外へ、池から庭へ、過去のある時からある時へと常に交換の動きを続けていった。実景を舞台にした『ミュリエル』でも、複数の部屋や場所にまたがって一つの対話が続けられていくシーンが数多くあった。『プロビデンス』は泥酔した老人の妄想という舞台設定で、全ての登場人物が話者であるこの老人の分身として現われ、声や出てくるべき背景を交換し、時には玄関だった場所が部屋の中だったり、同じバルコニーの背景(書割り)が海だと思っていたら人物が歩いていって戻ってくると山だったりと、美術監督のジャック・ソーニエとの共同作業のもと、レネは劇の舞台背景を絶えず動かし続け、それが意識と時間の交錯を表していたのである。

その後の『アメリカの伯父さん』の物語の外から注釈を加えるラボリ教授や『お家に帰りたい』のマンガのキャラクターも、劇それ自体には全く介入せず背景に付け加えられたり取り去られたりする要素として登場する。見ている方は不自然に思うが、映画の中ではそれが自然のこととして進行するわけだ。そして日本では公開されなかった『スモーキング/ノー・スモーキング』では、ピエール・アルディティが全ての男役、サビーヌ・アゼマが全ての女役を交換しつつ演じる。物語さえ「もし・・・したら」という形で交換できる要素となった。そして『恋するシャンソン』では、対話の一部分も歌のフレーズと交換される要素になったということなのだ。

「背景や場面に見えているものの一部を交換し動かす」というアイディアは演劇的だが、それを実演する方法は映画的である。ただレネはかつての盟友アラン=ロブ・グリエの『囚われの美女』のようにCGを使うコラージュのセンスはないだろう(というよりそもそもそのセンスがあるのはフランスではロブ=グリエだけかも)。またストローブ=ユイレの『今日から明日へ』のように、観客にはほとんど気づかれない歌手とオーケストラとの画面毎の生録音の完璧な同調のため背景をミリ単位に設定し、よりミクロな世界をとらえようとする過激さもない。『恋するシャンソン』が250万人もの動員を記録できたのもその保守性によるものだろう。しかしそこにあるヒッチコック映画の影は見逃せない。『お家に帰りたい』で『北北西に進路を取れ』のテーマ曲をラストのクレジットでさりげなく奏でた後の『恋するシャンソン』でのアニェス・ジャウイの原因不明の鬱病(それは『汚名』の毒薬で衰弱するイングリッド・バーグマンみたい)や夜会の黒服パーティ(『ロープ』『めまい』)など、その仕掛けが保守性を免れうるのは、レネが演劇的発想を映画的にするのを忘れていない時なのである。

(初出キネマ旬報1998年11月上旬号)


©Akasaka Daisuke

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