リスキー・ビジネス

真夜中の暗がりを前進する、いやズームの画面なのかさえ判別難しいなか、ガラスにスポットライトで照らされたシルエットの男二人の声がする。どうやら門の鍵を開ける音が聞こえ、大遠景ショットに変わるとどうやら辛うじて判別できる主人公の歩く姿は、その前を千鳥足で歩む男と女二人が危うく車をかわし煌煌と宵闇を照らし出す焚火の前でバスに乗り込む後に、かろうじてフレームから切れるか切れないかのうちにふらふらと見え隠れする。イエジー・スコリモフスキの第1作『身分証明書』の冒頭からしばらくは、誰が主人公なのかさえ特定できないまま進み続ける。兵士の宿舎らしきスペースで大勢の若者たちが集まり遊びに興じて騒ぐアンゲロプロスを先取りしたかのような移動撮影からいきなり面接を受ける男の視線が質問する教官たちを右に左にととらえた長い主観ショットの後に、観客はやっと壁の前に立つ主人公の姿を確認できるのだ。

スコリモフスキの自作自演による初期2作は、街中をさまよい走り回る彼自身のアクションを追うキャメラがフレーム内にとらえ続けられるかというギリギリのムチャな緊張で成立している映画であり、彼の登場に最も衝撃を受けた映画作家ジャン=リュック・ゴダールの当時の興奮ぶりは『気狂いピエロ』と当時のインタビューから今も生々しく伝えられてくる。ジャン=ポール・ベルモンドの彷徨と身のこなしについて、スコリモフスキはニコラス・レイの『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンとともに参照源となっているのは間違いないだろう。今では『アンナと過ごした4日間』を機にポーランド本国でDVD-BOXセットも発売されたことだし(母国で撮られた作品のみ収録)、その確認は容易である。たぶんスクリーンでの伝説復活には『不戦勝』と『早春』の2本立てがベストと思われるが(少なくとも『手を挙げろ』ではない)、最もその資質を開花させているのはその第1作である『身分証明書』なのだ。外の陽光から工場の暗がりと労働者の作業を通り抜けながら主人公と女の子が会話を続ける手持ちキャメラの長回しのシーンのように可視と不可視のあいだを駆け抜け、路面電車の並走&飛び乗り(『不戦勝』の伝説的カットを予告している)の文字通りのリスキーなカットまで、とにかくスコリモフスキ自身のアクションと距離のセンスのドキュメンタリーという意味で時代を超越するものであり、一方実際に列車飛び乗りに失敗して死んでしまった俳優が主人公を演じる『灰とダイヤモンド』の鈍さとは対照的である。『早春』の冒頭でプールに落ちてから絶えず転倒や転落の不安定な演出にさらされるジョン=モルダー・ブラウンをはじめ、『成功は最良の復讐』のマイケル・リンドンや『フェルディドゥルケ』のヤン・グレン、そして『アンナと過ごした4日間』のアルトゥール・ステランコもそうだが、おそらく共産主義体制下のポーランドから西側に亡命した後スコリモフスキはそのアクションのリスクを他人=俳優たちに負わせなければならないという困難に直面していっただろう。

スコリモフスキの可視と不可視のあいだの綱渡りは、後の相米慎二や黒沢清といった人々にまで系譜図を作ることが可能だろうが、当然その直接の先駆としてアンジェイ・ムンクを再発見することが前提となろう。わずかなフィルムで『身分証明書』が撮れるようスコリモフスキに助言したとされるムンクだが、その『エロイカ』の戦争シーン、酔っぱらって千鳥足で戦場をよろめきつつ駆けていく主人公とギリギリ同一フレームで爆発や銃撃が襲うCG抜きアクションは、奥行きを考えた絵作りを考えれば(この点さらに同時代のミハイル・ロンムが第2次大戦直後のベルリンを舞台に米仏の暗躍をロシア人女スパイが暴く『シークレット・ミッション』と比べてみよ)リスキーそのものであり、『悪運』で主人公がどういうわけかデモ隊の旗ふり役となって争乱の町中を右往左往するシーンもまた同様である。そこではカットを割っていながらも一連のアクションを保持せんとする意志があり、亡命後のスコリモフスキの映画を予告してもいる。『ザ・シャウト/さまよえる幻響』『ライトシップ』のように小屋や灯台船のような狭い場所で身動きが難しい一人の人物の視線に見立てられたキャメラの動きは、『身分証明書』のようなワンシーン・ワンカットではなく、いくつもの画面に分けられながらもなお連続性の意志に駆り立てられながら対象を追いかける。そして『アンナと過ごした4日間』の主人公レオンと看護婦の部屋もまた離れていながらも同じように狭さと闇を共有している。その動きの意志とリスクはアイヴァン・パッサーにあるがポランスキーやキエシロフスキの映画にはなく、ヒッチコックのような贅沢さではなくフライシャーの『その女を殺せ』のマリー・ウィンザー銃撃シーンのような低予算の綱渡りで成立する画面に漲っているものだ。

ところで『アンナと過ごした4日間』の無実の罪で投獄された過去を持つ男レオンは、彼が濡衣を着せられた当のレイプ犯罪の被害者に惚れてしまい、苦労してその部屋に忍び込んだあげく彼女の体をものにすることだけはない(皮肉にもそのことが女に対して男の無実を証明する)。同日にスクリーンで見ることができたホセ・ルイス・ゲリンの新作『シルビアのいる街で』もスコリモフスキの新作同様に女に接近する男の視線を巡る映画だが、こちらの追い求める「シルビア」とは面影のみの不確かな存在で、映画はその定まらぬ視線による捜索から特定さらには追跡へと移行し、接近し、見失い、再び発見し・・・ついに女に話しかけるまでが描かれる。その視線を正当化するためにゲリンは光とサウンドトラックをスペクタクル化し再構成する。『影の列車』Tren de Sombrasの失踪した映画作家の無人の屋敷に差し込み幻覚へと誘う光と影や音は、今回ストラスブールの街をさまよう主人公をしてカフェで女たちを眺める官能的なフィクションを可能にする具象画の枠として機能する(好悪は別にして、ゲリンはフレーム外の思いがけず特定できない音を響かせることはない)。それに対してスコリモフスキはアクション・ペインティングのように(実際彼の絵画はそうした要素を持つ)闇とそこに見え隠れする身のこなしによって枠を作る。虚構成立のために賭けられているのはいずれも大金ではないという事実とともに、同じ「女を追う男」というモチーフから、今日かろうじて映画を成り立たせる二つの鮮やかなヴァリエーションを見てとることができる。

(2008.10.21)


©Akasaka Daisuke

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