『戦争のはらわた』

2000年のサム・ペキンパー、である。童謡とマーチが交錯するあの狂ったような音楽のタイトルから(ストローブとユイレの『アンティゴネ』の冒頭でかかるツィンマーマンのほうが狂いっぷりが上じゃねえかとか言わないでくれ!)して普通の戦争映画や反戦映画と一線を画する興奮が襲ってくる。

この『戦争のはらわた』は第二次世界大戦末期の独ソ戦線を舞台に、敗走するドイツ軍の二人を中心に描く映画だ。一人は戦いの本性のままに生き残ってきた男スタイナー(ジェームズ・コバーン)で、重傷を負って入院しようとも、家にではなく戦場に帰ってしまう。もう一人はプロシャ貴族の出身で敗戦のさなかに鉄十字章(これが原題)を取りたいというバカバカしい名誉欲のためなら下士官を男色罪で脅迫し、死んだ中尉の手柄を自分のものにしようとするストランスキー(マクシリミアン・シェル)。

この映画は図式的にはある対比の構造につらぬかれている。中心の二人、スタイナーの部下たちと上官の二人(ジェームズ・メイスンとデヴィッド・ワーナー)、戦場と看護婦(センタ・バーガー)、リアリズムとコバーンの見る狂気と甘美が入り交じった幻想。そして言うまでもなく芝居と戦闘、爆発、死。ペキンパーの映画の中でもこの『戦争のはらわた』は最もこの交錯が激しく炸裂するが、四半世紀経って見直してみると、この映画の凄さは、演出と編集がこれらの互いに交錯する線が途切れないようにーそう、爆発で吹っ飛ぶ兵士の肉体が有刺鉄線に引っかかり着地して動きを止めるまでを見届ける、いつもの詩的なまなざしのようにー、観客にもその危うい綱渡りを渡らせる狂気なのだ。

デヴィッド・ワーナーが敗走の中で名誉に血眼になるマクシミリアン・シェルを芝居じみたナチの敬礼とともに皮肉るとき、爆発とともに吹っ飛ぶ兵士の映像の挿入とともに土砂が降ってくるが微動だにしない、というシーンや、コバーンが味方を助けようと背負ったところに爆発が起こり、宙をさまよう彼と時計の音とともに戦友たちの映像や看護婦と池で戯れる映像がこまぎれになって、ベッドの上で寝ているコバーンを手当てする同じ看護婦の芝居の中に挿入されるシーンは、戦争のリアリズムから離れて超現実的性へと突入してゆく。ペキンパーの映画でお馴染みのスローモーションはやすやすとこの超現実性を許容する。戦車の砲弾や薬莢さえが無重力状態で宙に舞い上がり、雨のように撃たれた人間へと降り注ぐのだ。

この種の詩的な次元をハリウッド映画のアクションで実現したのはペキンパーひとりだ。それは戦闘シーンだけにあるものではない。捕虜になったロシア兵の少年を釈放しようとするコバーンが言葉の通じない少年に「ここが俺とお前の境界線なんだ」と語りかけるシーンと、看護婦が止めるのも聞かずに黙々と身支度をするシーンが詩的でそして感動的なのは、言葉の通じないことを知っていてもなお語りかけようとする男や女の姿があるからだ。その短く静かな芝居の一部始終は、すぐさま爆音や車の騒音にかき消されていく(ここでも連続性と対位法がある)。

置き去りにされ、何とか帰還してきたスタイナーの小隊は合い言葉の「デマケイション(境界線)」を叫びながら撃ち殺されてしまう(一方デヴィッド・ワーナーはジェームズ・メイスンに説得されて退却する)が、スタイナーは憎むべきストランスキー大尉を「自分の小隊」にして戦い抜こうとする。その結末としての文字どおり狂った笑いが響く結末は、死んだはずの子供の登場とブレヒトの警句とともに、(あ〜ここでも『アンティゴネ』とかぶってるなんて言いますか・・・shit!)そしてドイツ兵をアメリカ人やイギリス人が演じていることによりかえって獲得された演劇的普遍性によって(ペキンパーが西部劇『砂漠の流れ者』『ビリー・ザ・キッド』をとりわけ演劇的に撮っていたことに留意)、驚くことに今だからこそ見るべき映画になっていることに気づくのだ。

(初出 月刊ラティーナ2000年2月号)


©Akasaka Daisuke

texts/archives