『白と黒の恋人たち』

恋人が麻薬中毒で死んだ映画監督は麻薬反対の映画を作ろうとするが、プロデューサーはマフィアで、「ヘロインを運んだら金を出す」と言う。主演女優は麻薬で死んだ女優を演じようとして撮影中に麻薬に手を出しはまりこんでしまう・・。
フィリップ・ガレル監督の『白と黒の恋人たち』は、フランソワ・トリュフォーが映画製作を描いた『アメリカの夜』のダークサイド版とでもいうべきストーリーを、自分のかつてのドラッグ体験を突き放した距離から見る年齢に達したガレル自身の態度が、苦い笑いを含んだ新たな境地へと達した作品だ。

60年代以来ウォーホルやニコとの生活でのドラッグ体験を特権的な物語として語ってきたガレルの映画は、フランス映画のなかのアンダーグラウンド映画として純粋なイメージの美しさを追求するものだったと言える。だがいつしか年齢を重ねるにつれ、彼自身が神話化に手を貸してしまったドラッグ体験を、距離をおいたコメディとして見ることができる視点も手に入れたようだ。

例えば主人公の監督を演じているチュニジア系作家メディ・ベラ・カセムは、ガレル自身の分身ではあるが(父親役はガレルの実の父モーリスが演じている)、麻薬反対の映画を作るために麻薬の運び屋を受け入れるという行動や、新しい恋人で主演女優でもあるリュシーがヘロイン中毒になっていることにまるで気づかなかったりして、どこか戯画化されている。ジュリア・フォール演じるその恋人である女優リュシーが主人公と純愛を誓いながら前の恋人と関係している姿もどこか滑稽に写る。そこにかつてゴダールの『小さな兵隊』で二重スパイの疑いをかけられ逃げ回る若者を演じたミシェル・シュボールがプロデューサーのマフィアで登場し、ドスの利いた声と味のある演技で笑わせてくれるのだ。

この映画でガレルは今までよりいっそう印象的な年長者の存在感を描くことに時間を費やしている。シュボールや父モーリス、その妻を演じるユゲット・マイアール、劇中劇でリュシーの母役で登場する『ジュデックス』『修道女』のフランシーヌ・ベルジェ、主人公を置き去りにするプロデューサーの役で登場する『7月のランデブー』のジャン・ポミエなど、かつてのフランス映画の名作で活躍していた人々の顔も多い。ゴダール映画の撮影だったなどと今さら説明不要の巨匠ラウル・クタールの、毎度輝かんばかりの黒白が、敬意を込めて彼らのドキュメントを残していく。クタールがゴダールの撮影を引き受ける前に報道カメラマンだったことを考えれば、今のフランス映画においてさえその独特な質感が類を見ないものだという理由が察せられるのだ。

いつもよりさらに語りを重視するガレルの演出は、いつもの彼の映画に登場する、待ち時間や劇と劇の間の時間のような、普通の映画なら削除されてしまう時間に語りを取込みながら、より複雑な人物の感情を描き出すことに成功している。例えば主人公とリュシーと両親が市場で買い物をする遠景シーンで、鶏肉はどうかと話し掛ける母親の側で抱き合う二人は耳を貸さないので、両親はそっと離れていく。以前のガレルなら恋人たちの愛しあう姿のみにフォーカスを当てるところだが、周囲の人々の困惑ぎみの態度が微笑ましい笑いをそこに混ぜ合わせる。あるいはリュシーをドラッグに溺れさせるという意味で悪役にみられてしまってもおかしくないミシェル・シュボールのマフィアに寄り添うハンガリー女性ジャジャのキャラクターは、共産主義時代を生きた過去を語るクローズアップによって魅力的なものへと変化する。このようにガレルは自分をモデルとした恋人たちの破滅的なイメージから距離をとることで、より豊かな陰影を獲得し、最も美しいフランス映画の作り手として成熟したのだと言えるだろう。

(初出 月刊ラティーナ2002年11月号)


©Akasaka Daisuke

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