ストローブ=ユイレの世界 空間と声の頂へ

ストローブ=ユイレの映画の画面が目の前にあらわれる瞬間に、我々は突然光が飛び込んできて視線をつかまれたような感覚にとらわれる。『雲から抵抗へ』の冒頭、樹上の"雲"のクローズアップに、それを見上げるイクシオンを手前に、奥に差している陽光に輝く草木の緑を大きくとらえた空間を配した画面が続くとき、我々はストローブ=ユイレによってこの「被写体としての空間の存在」を驚きとともに発見する。そこでは人間が画面の中心ではないことが明らかで、その背後の空間が絶対になくてはならないものとして人物と結びついており、その結びつきの線こそが見る者をつかんで離さない力を放つのだ。ストローブ=ユイレはかつて、自分たちが描いてきたものを、この人物と背景のモニュメンタリティ(建築物性)と呼んだ。それは『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』や『アメリカ』のような室内が主な舞台となる映画でも同様である。『バッハ』の演奏家たちの白い鬘を輝かせる光が差し込んでくる窓のように目立つ場合はもとより、『アメリカ』のカール・ロスマンがエレベーター・ボーイとしての持ち場を離れてボーイ長と門衛長に責められる事務室のシーンでも、3人各々の人物を捉えた画面の中心は人間を外れた脇の暗い空間を捉えている。『オトン』では動き回るカメラが人物ではなく後の地平線に向かって高速の前進移動を行い、『アンティゴネ』では平地で背景がもはやないからか珍しくも長い焦点のレンズで遠くの風に揺れる木をアンティゴネーの背後に寄せて見せる。人間を中心に置かない画面は、人と空間の共存を発見する場なのだ。

ストローブはかつて『妥協せざる人々』の1つ1つの映像はメッセージではなく、機能、語り、劇的でも精神分析的でもなく、それぞれの映像が一つの世界である、と語り、それがF.W.ムルナウの映画と共通した点だ、と語っていたことがある。ストローブ=ユイレの映画の人物の背後の空間は、確かにムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『フォーゲレット城』の人物の背後に広がっている空間や奥行きを思い出させるが、必ずしもそれがストローブ=ユイレがムルナウの空間を引用していると言いたいわけではない。彼らが『黒い罪』の舞台となる谷の斜面をシュトロハイムの『アルプス颪』のラストの山頂に見立てたとしても、それも引用というわけではない。それはまた必然的に彼らの言及するジョットや彼らの映画のテーマになったセザンヌの絵画が世界を把握する空間にも想いを及ぼさせるが、これとて決して絵画を模倣しているわけではない。ただストローブ=ユイレは自らの人物と空間の建築物性を撮ることで、これら先人たちの空間の作業と今撮りつつある自分たちの撮影的現実を結びつけ、さらに映画館を離れた観客も、連続したこの世界の空間に生活しているという事実を思い起こさせるのだ。この空間を尊重する作業を、ストローブ=ユイレは「慎ましさをもって現実を撮影すること」だと言っている。

ストローブがジャン・ルノワールや戦後ドイツ最大の映画作家と呼ぶペーター・ネストラーを賞賛するとき、その空間に響く同時録音について語らなければならない。ストローブは、ルノワールの「ダビングは暗殺であり声とは個人を表す最も重要な要素なのだ」という言葉を引用し、『妥協せざる人々』はドイツにおいてフランスにおける標準と異なるアクセントや地方なまりが初めて同時録音された『トニ』の実験に相当すると言い、またネストラーのドキュメンタリーの空間に密着した繊細な直接録音を挑発的だと言うとき、ストローブ=ユイレの映画はとりあげるコルネイユ、カフカ、シェーンベルク、ヘルダーリン・・・という過去の時代の文学テクストや音楽と、それを発声する俳優や先述した撮影時の現実を結びつけるドキュメンタリーとなっていることがわかる。例えば現代の青年が時代物の衣装をまとったローマ時代の人々の話を聞くブレヒトの『歴史の授業』が代表的だろう。このことは同時に彼らの映画だけでなく、すべての映画にも言えることなのだ。例えばジャック・リヴェットが『イントレランス』のバビロニア時代のエピソードは、その時代について描いている映画である以上に当時の俳優、装置、フィルム、経済など撮影的現実のドキュメントであると言っていた(彼自身の『ジャンヌ』完全版が1992~93年のフランスにおけるジャンヌ・ダルク劇構築のドキュメントとして後世に残る)ように。ストローブ=ユイレは『早すぎる、遅すぎる』でフランスとエジプトの農村の風景を満たす現在の音の中で、エンゲルスやフセインによる農民たちの革命と抑圧の記憶を喚起するテクストを読み上げ,結びつける。また実際に俳優が登場する『アメリカ』や『アンティゴネ』でも、台詞を言い終えた人物がその場から退場して行く時、その足音が空間から消えていく時間がじっと尊重され、記録される。観客がその劇の背景にある撮影的現実を絶えず意識に上らせるように。しかしときには、先述した『アメリカ』のボーイ長の部屋のシーンでその場にいなかったテレーゼが突如現れる時のように、彼らは映画の連続性のための自由さを忘れてはいないのである。

ではストローブ=ユイレ的空間に響く強力な言葉はどのように組織されているのか。「私たちはどの役者とも(各々と)アクセントや間を決める。最終稿を作ってからダニエルが台詞を書く。数単語、あるいは文章の一区切りずつを新しい紙に書き直す。するとそれはまるで詩のように改行がたくさんあるかたちになる」(ユーロスペース発行「アメリカ」パンフレット収録のヴォルフラム・シュッテによるインタビューより)この言葉はすぐに「すべての革命はのるかそるかである」のマラルメの詩を朗読する人々のことを思い出させる。ストローブ=ユイレの映画では、俳優とは歌手のように朗誦を行う人々だ。1980年代の記念碑的名作と言うべき『エンペドクレスの死』のアンドレーアス・フォン・ラウフの超人的な朗誦を筆頭に、「アーノルト・シェーンベルクの<映画の一場面のための伴奏音楽>入門』のシェーンベルクがカンディンスキーに宛てた手紙のなかのナチスがユダヤ人への階級無差別な迫害を警告する朗読、『雲から抵抗へ』のラストでパヴェーゼの名著「月とかがり火」の父親による娘殺しの部分とナチスやパルチザンの二重スパイとなり射殺された少女の末路の朗読、『セザンヌ』のダニエル・ユイレによるジョアシャン・ガスケの文の朗読の押韻、リズム、高低、息継ぎまでのインターバル、沈黙による声のラインの音楽的形成は、それぞれの文に込められた怒り、抵抗、警告の精神を具現化する。だから『セザンヌ』の朗読に挿入される『エンペドクレスの死』の部分は、フランス語とドイツ語の違いにもかかわらず、その朗読の声のラインの相似形からか、ごく自然に納得させられてしまうのだ。

ではその朗誦はどこに到達するのか。例えば地鳴りのような打楽器とコーラスの対位法がとてつもなくダイナミックなオペラ『モーゼとアロン』の冒頭、モーゼの後頭部をとらえたカメラは、コーラスが加わるとともに山縁を辿りながら空をとらえ動いていく。『バッハ』の聖トーマス教会での「マタイ受難曲」や「昇天祭オラトリオ」のコーラスの最後にも写る空と海。「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」のソプラノ独唱と森の上の空。また『アメリカ』において母の死の光景を語るテレーゼの前に開かれた窓の光。また一瞬の銃声と静寂に怒りを爆発させる『妥協せざる人々』の祖母や『花婿、女優、そしてヒモ』の女優。そこにも窓の外からの光が存在している。あるいは『雲から抵抗へ』の娘殺し朗読部の黒画面や『アンティゴネ』の長老たちの合唱部に写し出される地面の石線のように,重い声とともに深く沈んでいく場合もある。また『フォルティーニ/シナイの犬たち』の著者フランコ・フォルティーニ自身による朗読は、句読点のような画面を挟みながら加速度を増し、地平を踏破していくように感じられる。そしてこのようなストローブ=ユイレの声と空間の対位法は、その最高の瞬間に恐怖を覚えさせるほどの至高の点に向かっていく。『エンペドクレスの死』のアンドレーアス・フォン・ラウフが二度にわたってエトナ山と空に向かって独唱を続けるとき、見る者はもはやただ茫然と身を委ねているしかない。信じられないほど美しい映像と途方もない朗誦の出会い。それこそ現代の映画が到達した最高峰の頂なのだ。

(初出 キネマ旬報1997年12月上旬号)




©Akasaka Daisuke

texts/archives