Speech〜Act/Speed

21世紀のマルチメディア社会以前、映画は20世紀初頭からテレビが出現する1950年代まで、娯楽とマスメディアの中心的存在を担ってきました。その後多メディア時代のなかでその地位を譲ったと看做されていますが、私が思うに、その地位を譲ったからこそ、その後に生まれてきたメディアに対して批評的な立場を得ることができたのだと思います。映画は娯楽、芸術、プロパガンダ・メディア等多岐な要素をフォルムのうちに含んでいます。ですから他メディアに対して批評的であったり、自己反省的であったりすることであらたなポジションを得ることができます。観客の方もそうした認識のほうにむしろ移行すべきなのです。私もそうした考え方から批評や上映活動を行っています。

そこで、最初にとりあげたいのは、アメリカの代表的な映画作家の一人であるオーソン・ウェルズです。彼の『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』はシェークスピアのいくつかの戯曲からの抜粋をコラージュして作った作品ですが、周知の通り、ウェルズという人は1940年代のアメリカのメディアというもののある種象徴的存在だったといえます。彼は演劇から始まり、ラジオ番組でのH・G・ウェルズ原作『火星人襲来』で聴衆をパニックに陥れたことでも知られていますし、その後映画に活動領域を広げ、今でも映画史上ベストテンで一位を争う『市民ケーン』を1941年に撮りまして、その後演劇と平行して映画を撮っていくことになります。そしてRKOと衝突し、最後にはハリウッドから追放された後、自主製作で映画を撮る資金を得るため『ジェーン・エア』『第三の男』のような有象無象の数多くの映画に特別出演することになります。晩年になりますとほとんどが未完成の映画になってしまう企画を撮り続けて、かなり悲惨な最期を迎えることになってしまったのですが、『フォルスタッフ』はウェルズが35ミリの黒白で撮ることができた最後の映画でして、撮影監督はエドモン・リシャール、彼はルイス・ブニュエルの撮影監督もやっています。

オーソン・ウェルズは『偉大なるアンバーソン』『イッツ・オール・トゥルー』でのRKOとの衝突後、『マクベス』や『黒い罠』のようにハリウッドで撮れた映画、つまり一つの場所で集中して撮影できる映画の場合はできるだけワンシーン・ワンカットの長回し撮影で撮影していたのですが、ヨーロッパに亡命した後の作品ではそれが上可能になってしまったので少しづつ撮影するしか方法がなくなり、例えばカットを細かく割って、二人の人が会話するシーンですと片方を撮った後3年後に切り返しショットのもう片方を撮影して編集でくっつけるということをやっています。『オセロ』が典型的なんですが、資金難から、これがつながったら奇跡だなとか思いながらも、片方の顔のクローズアップを2年後に撮らざるを得なかったのです。それが奇跡的につながってカンヌ映画祭のグランプリを獲得したりして、それに味を占めてか『Mr.アーカディン 秘密調書』や『審判』や『フォルスタッフ』でもこの方法で作っています。中には片方を後ろから代役を使って撮ったり自分がアフレコで声の代役をやったりして、一種のごまかしというか詐欺のようにして作っていったわけです。そのことを最後の『オーソン・ウェルズのフェイク』はこのような自分の綱渡り的な虚構の作り方を種明かしする映画になっています。ですからウェルズはアメリカの栄光のイメージ、世界で最も豊かな憧れのイメージ、世界で最も裕福な国のイメージを提供していた映画の虚構の成立の仕方自体を見せて、自分で自分を笑うような映画を作っていったところがあります。それ自体とても現代的なんですが、例えば『フォルスタッフ』の中でも、ジョン・ギールグッドが演じている王の死のシーンを見ていると気づかれる方もおられるでしょうが、実景でシェークスピアの芝居を演じているのですが、"芝居としての死"を演じているわけで、リアルに撮るんだったらほかのやり方があると思われるでしょう。"芝居としての死"なので朗々と台詞を言いながらありえない形で死んでいくわけです。本当らしくないのです。公開当時は別に指摘されなかったのですが"芝居としての死"なんだよこれは、ということを言外に示しています。オーソン・ウェルズはこのことを、ハリウッドの栄光のなかでごく自然に作るところから始めて、その作り方が成立しなくなった成れの果てのところで、つまり虚構がもはや成立しなくなったところで、一見立派に見えるこのシェイクスピア映画の中で言ってしまっているのです。だから彼は古典映画の全盛期から終末までをそこでやってしまっているところがあると思います。

そしてこの後でマノエル・デ・オリヴェイラの『ノン、あるいは支配の空しい栄光』の一部分を見てみますと、オリヴェイラという人はオーソン・ウェルズが拘っていたところから自由になっていることがわかります。城の中で行われる結婚式のシーンなんですが、オーソン・ウェルズと違って、向かい合った人物たちを切り返しで撮っていてもそれはもはや切り返しとは言えません。人物がキャメラに向かってしゃべり、画面はあからさまに様式化した絵画の模倣のようになっています。大司教が真ん中にいて結婚する二人が両横にいて正面を向いています。話を聞いている人々のほうは、前景と後景に居並んで平面的な構図をつくっています。これは何から来ているのかといいますと、1400年代に活動した画家ヌーノ・ゴンサルヴェスの三幅画です。これはオリヴェイラが以前撮った『文化都市リスボン』にも出てきます。この映画では通常話し合っているシチュエーションで二人の人物の顔が交互に写るときでも、人物の視線はおもむろにキャメラに向かうのです。そのことは逆に普通見られるいわゆる"切り返し"というのは単なる約束事にすぎないことを示しています。オリヴェイラはある時インタビューで、劇映画とはキャメラの前で演劇を上演することなのだ、と言っています。だから『ベニルデ、あるいは聖母』という映画ではシーンがかわるたびに"第何幕"という字幕を入れたのだ、と言っているのです。こうしたやり方は一般的ではないのですが、では一般的なやり方とは何なのか、ハリウッド映画やテレビドラマの約束事にすぎないではないか、もっと違ったやり方があるのではないかということを考えさせてくれます。もちろん別のやり方をとる映画は過去に山ほどあり、現在も作られているのですが、そうした約束事に従う映画を上映する方が観客にとって追っていくのが容易であり、そうした約束事そのものについて考えなくてもよいので、全世界で支配的になっていきます。ただそれはあくまで自然ではないのです。

オリヴェイラは劇映画同様ドキュメンタリーでもこのスタイル、キャメラに向かって語りかける手法を使っています。『文化都市リスボン』のワンシーンで、教会の前で芝居が行われているところにカモンイスという詩人の研究家が出てきまして、キャメラに向かって説明をします。それが終わってキャメラが教会の中に入っていきますと、中では詩の朗読が行われます。そしてその前で先ほど出てきた研究家が再び登場してそれについてまたキャメラに向かって語ります。非常にすばらしいシーンです(註;もっとも日本で見ることができるプリントは残念ながらイタリア語ナレーション版です。この件には私自身も責任があります。というのも5年ほど前に地中海映画祭というイベントで上映作品の相談を受けた際にこの映画を推薦したのは私自身なのですが、相手方のイタリア人のプロデューサーは詐欺師で、当初見本としてポルトガル語オリジナル版のヴィデオを送ってきたのですが、購入が済んで送られてきたプリントを見るとこのヒドいイタリア語ナレーション版だったのです。私自身が共同製作者であるラジオテレヴィジョン・ポルトゲーザに問い合わせてみたところ、彼らはプリントを所有していませんでした。後に行われたオリヴェイラの回顧展ではプリントを上映せずにヴィデオを上映していました。)。ここでは映画でできることが詰まっている感じがします。ここには語ること、演劇、ドキュメンタリーとフィクション、詩もあります。この映画自体ドキュメンタリーと分類されていますがそういっていいのかどうか、この中にはなにげにトーキー映画の全部が入っているような自在なシーンです。それを映画というのはこういうものなんだというふうに決まりきった枠の中に入れてしまうというのはもはや時代遅れと言うか、一つのフィクションなんです。でもインドでも中国でも現在でもなお普及する映画というのはメジャーであればしだいに似通ったものになっていますし、それを見る人たちもこの状況に慣れてしまい、コントロールされるというのが簡単になってしまいます。こういった映像の支配状況に慣れてしまいますと、ちょっと違ったスタイルの映画を見ますとどう受け止めていいのかわからないということになってしまいます。でも、映像が映画館だけにあった時代は過去のものであって、現在は、家庭のテレビや街頭や電車のスクリーン、携帯にも映像が付属していて、もはやひとりの人間が過剰な数の映像に取り囲まれた状態になってしまっています。だからこの状況だといっそう型にはまった思考から逃れるのが難しくなっていきます。そうした状態を改善しようと地味なシネクラブのようなことをやらざるを得なくなっているのですが・・・。というのもテレビはスポンサーのために情報をどうやって伝達するのかということに集中していますので、媒体そのものに疑問を持たせるような作品をなかなか上映したり放送したりできません。映像を分析してこれはどうなっているのかを研究し教育の形でいっそう重要になっているのですが、日本では映画は娯楽か芸術かでありそれは愛好家の人々とか特殊な嗜好の人々が扱うものと看做されています。でもそうではなく、一般の人々が映像に囲まれている今だからこそそうした人々に開かれていくべきだと思うのですが・・・アカデミックな方々がどう思われているのか知りませんが・・・。

ところで少し話はそれるのですが、オリヴェイラにしろウェルズにしろ、映画は詩やシェイクスピアの台詞を朗読するシーンのように、すぐれたスピーチ・アクトを探求したり記録したりするという媒体としての別の役割もあります。ハリウッド映画のなかでこのことを追求してきたのはもちろんハワード・ホークスです。『脱出』『三つ数えろ』『ヨーク軍曹』『赤ちゃん教育』など、娯楽としての映画の監督として知られているわけですが、俳優のスピーチ・アクト、台詞の速さ、ダイアローグを音楽的なものとして徹底的に追及してきた人であります。それが娯楽のジャンルとしてできたというのがまた面白いんですが、例えば『無限の青空』『ヒズ・ガール・フライデー』や製作者となっていますが演出もしていることが知られている『遊星よりの物体X』の一つのシーンをとりあげて並べてみますとその発展がわかります。『無限の青空』は郵便を空輸する会社の話で、仲間の乗った飛行機が行方上明になって各地の飛行場に連絡し、見えたかどうか聞き回っているシーンで、ジェームズ・キャグニー以下3人の登場人物が速さを競うようにものすごいスピードでしゃべっています。まあ緊急的なシチュエーションですので当たり前に思われるかもしれませんが、それでも一般よりも速いスピードでしゃべっています。『ヒズ・ガール・フライデー』はそれよりも速くしゃべっているように感じられます。なぜかというと一人の人間が言い終わる前に相手が台詞を重ねて言い始めたり、同時にしゃべったりしているからです。それに、そうすることでより自由にしゃべっているように感じられます。次の『遊星よりの物体X』は北極基地の近くにUFOが落下し、その中にいた椊物人間というかエイリアンをチームで捕獲して退治しようとする話です。ここではチームで行動するので5、6人の人物が同じ一つの画面の中に登場してきまして次々に速く台詞を言いますので、誰がどの台詞を言ったのか追いつけないぐらい速く感じられます。今見ても相当速い映画で、どうしてインフォメーションを正確に伝えなくてはならないはずのハリウッド映画のような娯楽メディアでそれらが実現できたのか上思議なほどです。考えられるのは、ハワード・ホークスはジャズが好きで、自作『教授と美女』のリメイクで『ヒット・パレード』という映画をベニー・グッドマンやルイ・アームストロングら有吊ミュージシャンを大挙出したいがために作ったほどであり、他にも映画の中でセッションをするシーンを数多く描いているのですが、そうしたことと別に、俳優たちの声を楽器として考えていたのではないかということです。例えばギタリストのジェームズ・ブラッド・ウルマーという人はインタビューで、普通ギターとベースギターが同時に演奏される時片方はもう片方のためにスペースを空けているので自由になれないのだということを言っています(1)。映画でも通常一人の俳優が話している間にもう一人が話さないものなのですが、ハワード・ホークスという人はそれは約束事でしかないということを声という楽器で示そうとしたとも言えます。

台詞の音楽性を追究するという視点から見てみると面白いのですが、今年すでに新作を完成させた(2)ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレのふたりの映画で『オトン』(1970)という映画があるのですが、『無限の青空』同様に戯曲の映画化で、これはローマ帝国の権力闘争を描いています。ローマのパラティノの丘の上でキャメラの前の野外上演のドキュメンタリーのように撮っているのですが、ハワード・ホークスの映画のように(作者たちもホークス的な映画だと言ってるんですが(3))速射砲的な台詞のしゃべらせ方で演出しています。それに加えてこれはフランスの戯曲をフランス人以外の、イタリア人やアルゼンチン人のキャストでやっていて、なまりや言い回しでフランス語の構造をあらわにするような仕方で作っています。面白いのは、これは16ミリ、カラーで撮っているのですが、特に60年代末くらいから70年代にかけて、ジャック・リヴェットやストローブ=ユイレはこの35ミリより画質の点で劣るけれど当時としては機動性があって低予算で撮れる16ミリというメディアで何本かの映画を撮っています。ただリヴェットやストローブ=ユイレの面白いのは、ハリウッド映画の文体の意図的な模倣として使っているんですね。リヴェットはエクレールのキャメラで25ミリレンズ、ストローブ=ユイレは18.5ミリレンズという広角レンズを使っているのですが、例えばリヴェットが言うには、それはRKOのB級映画の模倣であって、しかもそのRKOで撮られた映画の画面はウィリアム・ワイラーが撮影グレッグ・トーランド(オーソン・ウェルズが『市民ケーン』で組んだ)で作った、当時流行だったパンフォーカス画面の模倣であると言っています。つまり歴史の連続性の中で作っているということです。またストローブはインタビューで、16ミリの同時録音と手持ちキャメラをやってみたかったと言っているんですが(4)、そこに先駆者として文化人類学者としても知られるジャン・ルーシュという人の影が感じられます。ここでもまた面白いのは、ジャン・ルーシュはジャック・ベッケルのスタッフに16ミリキャメラの手ほどきを受けた人で、ジャズの愛好家だということです。ジャズを映画の中で使っていないけれど、自分のキャメラワークはサッチモ(ルイ・アームストロング)のトランペットのプレイに影響されていると語っています(5)。ストローブ=ユイレはジャズから遠い人なのですが・・・でも『オトン』はジャン・ルーシュに接近しながら撮影したハワード・ホークスの映画と見ることもできます。

さらにもう一つ、ストローブは、この『オトン』という映画はルイス・ブニュエルの『熱狂はエル・パオに達す』という映画を見ていなかったら作らなかっただろう、と言っています(6)。この『熱狂はエル・パオに達す』は本人も主演のジェラール・フィリップも気に入っておらず、少なくとも日本で出版されたブニュエルについてのどんな本でもまったく評価されていない映画です。おそらく見た目のシュルレアリスムがまったく見当たらないからでしょうが、でもこれはブラジルのグラウベル・ローシャなんかもラテンアメリカの政治の問題を暴いたすばらしい映画だ、と言っている作品で、代表作『狂乱の大地』で明らかに影響を受けている非常に重要な映画なんです(7)。この映画ではジェラール・フィリップやマリア・フェリックスのようなスターも含めて、この映画の登場人物全員が権力と関係し、灰色に染まっていて滑稽であり、結局報いを受けることになります。ある架空のフランス椊民地の国を舞台にしていて、横暴な総督が暗殺されるのですが、代わりにやってきたジャン・セルヴェ扮する新しい総督はさらに悪党で、前総督の妻フェリックスと秘書官フィリップの上倫を押さえ、フィリップを逮捕すると脅してフェリックスを寝取りますが、フィリップとフェリックスはそれを逆に使ってセルヴェを逮捕し殺し、権力を奪います。でも次にフィリップは権力の座を守るためにフェリックスを追放しなければならなくなるのです。つまり愛はここでは権力闘争の道具になってしまうわけで、『オトン』『狂乱の大地』でも同様の人間関係が見られるのです。 ブニュエルは、この映画は台詞が多すぎると言っているのですが、スピーチ・アクトの点から見るとホークスの映画のような演出がされているわけではありません。でもこの映画には別の種類の速さがあります。それは動きを決して止めないというか、例えば移動撮影が動きを止めないうちに次の画面の動きの端に繋いでしまうような編集にあらわれています。ホークスの『無限の青空』と同じことをしているわけではありませんが、やはり速さがあります。そしてそれはいつものブニュエル映画のいい加減とも言える展開を観客に気づかせないほどです。最初にジェラール・フィリップが正面から登場するカットではキャメラが後退するといきなりマリア・フェリックスの浮気現場が手前に現れるとか(それが最後の伏線になります)、総督暗殺シーンで正面からあんなに短い距離から狙撃しているにもかかわらず暗殺者が逃亡してしまうとか、暴動を起こした囚人たちが何の理由もなく降伏してしまうとかですが、それは特にジャン・セルヴェを使ったギャグ(彼が二人組の手下を使って要人を始末するシーンや、マリア・フェリックスが彼を射殺しようとして失敗した後で抱き合うシーンとか、飼っているインコが地下の牢屋でも相変わらずなついているシーンなど)にも助けられて、やっぱり大笑いさせてくれます。

ブニュエルは、グラウベル・ローシャとの対談で、ラテンアメリカの人々は映画向きではない、と言っていました(8)。つまりハリウッド映画は我々には作れないというところから出発し、ついでメキシコの低予算B級映画時代に、アメリカに滞在していた頃に学んだハリウッド映画の規則を模倣することで批評的な笑いというものを獲得したのです。それは現在においても教訓的です。例えばアルゼンチンやチリで行われている映画祭のHPを見ると大部分がもはや35ミリフィルムを使った映画ではなく、デジタル・ヴィデオで撮った作品であることがわかります。ラウル・ルイスは、ラテンアメリカの若い作家にはDVを35ミリに直す金がないため国際映画祭に参加できない、と言っています。だから35ミリフィルムというのは、残念ながらある種の一部の人のための、貴族的なメディアになりつつあるということです。ルイス自身はやはりフィルムが好きなので『見出された時』や『クリムト』のようなヨーロッパ製作の大作を撮っていますが、一方では自国のチリに帰るとDVで10日くらいの短期間で撮影する作品を作っています。そして低予算のほうがずっと面白いのです。ただそれらの大作にも気に留めるべき箇所はあって、例えば『見出された時』に出演しているアラン=ロブ・グリエはご存知ヌーヴォー・ロマンの小説家で映画作家でもあるのですが、新作『グラディーヴァは呼んでいる』でフロイトが症例として分析した『グラディーヴァ』という小説を元ネタにしています。一方ルイスは『クリムト』をオフュルスやキューブリックの映画化でよく知られるシュニッツラーの小説の手法を使って映画を撮ると言っていたのですが(つまりクリムトを主人公に『アイズ・ワイド・シャット』を丁寧に作り直そうとしたら金をかけた『夢二』になったという(笑)作品で、その意味で短縮版での公開は非常に残念)、シュニッツラーもまたフロイトが執着していた作家であって、そのへんが興味深いと言えば言えます。ロブ=グリエは日本ではまったく語られていないのですが、スペイン語圏のすぐれた小説家(ハビエル・マリアスやフアン・ベネト)の紹介者でもあります。
ルイスの話に戻ると、例えばチリの教育省に依頼されて撮った"Cofralandes"というDV作品のシリーズがあるのですが、これは1973年9月11日のピノチェトによる軍事クーデター(チリでは9.11というのはこちらを指す)によって自国を追われて以来30年ぶりにチリで製作した作品で、アメリカ人やフランス人のジャーナリストの視線を通してチリという国と歴史を”発見する”という設定でルポルタージュ番組の形式を装って、そこから自由な発想を展開しています。10本予定されているシリーズで、4本まで完成しているのですが(9)、特に2本目の"Rostros y Rincones"や3本目の"Museos y clubes de la regione Antartica"で、ジャーナリストがその地方の概要について語る声、詩の朗読、インディオの儀式らしき声を交錯させながら、画面では山脈やパンパ(草原)の遠景から無人の建物、部屋から事物へと近づいていくさまざまなサイズの固定画面で構成されたシーンが延々と続くのですが、ルイスのいつもの仕掛けなどまったくないシーンがすばらしくシンプルで力強いことに驚かされる、近年の彼の作品で最もすぐれた作品になっています。これをローシャの"Di"という画家エミリオ・ディ・カヴァルカンティの死についてのさまざまな断片(葬儀、彼の絵、死亡記事、その死を知らされたときの自分自身を演じるローシャ・・・)をカットバックで交錯させる短編映画(10)の、ほとんどアジテーションかラップにも似た激しいナレーションと比較してみると面白いと思います。ローシャは、私は"Di"を撮りながら、映画の高度にヴィジュアルな側面、ヴィジョン、色彩、イメージ、音、詩としての真の映画を発見した(8)と言っていますが、そこには、ハリウッドのように裕福ではないものの、やはりスピーチ・アクトの音楽性を模索する連続性があるからです。

(2006.6.16,同志社大学で行ったレクチャーをベースに大幅改稿、発展させたものです)

(1)http://www.allaboutjazz.com/php/article.php?id=18452

(2)http://p.php.uol.com.br/tropico/html/textos/2758,1.shl

(3)http://www.torinofilmfest.org/db_view.php?ID=73〈=eng&cat=8

(4)Filmcritica n.204~205

(5)http://www.jazzmagazine.com/Interviews/Dauj/rouch/rouch.htm

(6)"Jean-Marie Straub Daniele Huillet",Cinemateca Portuguesa-Museo do Cinema,p99

(7)http://lianacunha.multiply.com/reviews/item/4

(8)"Glauber Rocha" Sylvie Pierre,Cahiers du Cinema collection auteurs p191

(9)http://www.cinechileno.org/modules.php?name=Unique&id=150 などで視聴可能。

(10)http://www.youtube.com/watch?v=e-9ANJe8H3w&search=glauber%20Rocha

©Akasaka Daisuke

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