ビトムスキーの『塵』

冒頭、引き延ばされた黒白フィルムの粒子の粗さの中で嵐が吹きすさぶ中、砂塵が舞いかろうじて人馬が行き来する影が認められる。シェーストレムの『風』のワンシーンかと思い至ったとき、唐突に聞き覚えのある低い声に風音は断ち切られてカラーに変わると、青いブロアーでアリフレックスの内部の塵を落とし、画面を重ねるうちに手際よく「50mm」の声とともにレンズをカメラに装着する手が伸びてくるのが見える。このハルトムート・ビトムスキーの新作『塵』Staub(2007)はある意味で前作『B52』の「続き」と言えるだろう。つまりあの映画で「スクラップにされ粉々になったB52の破片」のその後についての映画だとも考えられるからだ。だが他方でそれはいつものビトムスキーの作品に見られるアイロニーと文明批判にとどまらず、上映時間90分にもかかわらず膨大な挑戦の射程と文脈の集積に開かれた驚くべき作品となっている。

『塵』は唯物論的な映画作家(その代表とはもちろん、かつてビトムスキーに強い影響を与え、ダニエル・ユイレというパートナーを亡くしてなお『アルテミスの膝』(2007)のような、向かい合うふたりの人物の全景と各々のアップというアングルの圧倒的な自律性で輝く映画を単独で作り上げられることを証明したジャン=マリー・ストローブである)にとって冒険映画でもある。塵とはビトムスキー自身が被写体に選んできたアウトバーンやフォルクスワーゲンやB52と異なり、可視と不可視の間にあるものであり、画面を見ている観客全員がその視線にとらえられるとは限らない被写体を提示しなければならないからだ。ビトムスキーはまずそれらを取り扱っている人と場所をランダムに探し求める。生産物を細かく砕いて粉末にしてしまう工場、その粉末の害を避けるためのフィルターを扱う人々や美術品の塵を払う作業、金粉採取業者や家庭の埃を除去する主婦、掃除機メーカーと塵コレクター・・・塵を除く者と収集する者が全く異なる分野やコンテクストから交わり合い隣り合わせになる。この作品自体が一つのオープン・システムとも言える開放性と面白さは、おそらくビトムスキーの映画の中では今までなかったものだろう。アメリカを横断する「忘れられた」ロードムービーの傑作『ハイウェイ40 West』でさえこれほどの自由さを生きてはいなかったはずである。もしかすると彼がその作品を高く評価していたヨハン・ファン・デル・コイケンの中期、例えば『Flat Jungle』かまたは人々の顔から自在さを生み出した後期の傑作『Face Value』あたりの闊達さを意識していたのだろうか。

 

ビトムスキーはロバート・クレイマーに捧げた前作『B52』がイラク戦時下のイデオロギーに囚われたアメリカの左右両陣営から不評を買った後、Calartの教授の職を辞し、かつて『ハメット』を批判したために仲違いしてしまったというヴィム・ヴェンダース同様に、この映画製作直前にベルリンに戻っている。ビトムスキーは、塵の主題を選んだことで、自分をカリフォルニアから追放しベルリンへの帰還を強いたそのイラク戦争について距離と時間を置いてあらためて語っている。つまり塵とは2001年9月11日に粉々になったWTCの破片でもあり、それが住民たちに及ぼした危険から、アスベストによる土壌汚染、戦争で使用された劣化ウラン弾による「塵」、さらにはそれらを空へと巻き上げ運んでいく風や嵐による被害へと進む。一方で、その「塵」を採取し分析する研究者や拡大し写真に撮るアーティストや惑星爆発によって飛び散った破片を研究し宇宙の起源を知ろうとする科学者にいたる「塵」に魅了された者たちを提示する。地上から宇宙へと膨大な射程を持ちながらも、この映画は、観念的な自然環境論とやたらと美しい映像ばかりが登場する昨今支配的なドキュメンタリーと一線を画している。それらのドキュメンタリーは美しさを強要することでかえって我々の日常の現実を隠蔽し切り捨ててしまうというエコロジー・プロパガンダの典型であり、おまけにメディアたる自らを隠すことでそれが大金をかけた映像と音で「つくられている」ことを忘れさせてしまうという意味で、二重の罪を犯しているのである。

それでは何によって一線を画すのか。人々の手の動きを撮ることと、拡大することによってである。言い換えればブレッソンとロッセリーニを思い出すことによってと言っていいかもしれない。人々が塵を扱う身振りは、必ず手を使う。拭い、払い、集め、人はそれを覗き込む。ここでもまた塵を排除することと収集することという対立する動作が『抵抗』『スリ』の作家が用いた俯瞰の同一アングルからとらえられ、『イタリア旅行』の作家の顕微鏡的な長い画面のもとに見つめられる(特に美術館のシーン)。対立する行為の相似性を示すトポロジカルな視線のもとの並置という点で、おそらくビトムスキーはファロッキとともに、今のところゴダールの70年代のヴィデオ作品群の残した方法の唯一の活用者と言っていいだろう。そして可視と不可視の間にあるものを見る、と言えばペーター・ネストラーである。ストローブにさえ同時録音の点で大きな影響を与えたこの作家を語らない日本のドキュメンタリーの言説はおそろしく時代遅れなものになってしまっているが、『塵』の先駆者として位置しているのがそのネストラーの『北ノルトカロッテ』Die Nordkalotte(1990)であろう。チェルノブイリ原発事故直後のラップランドを訪れ、何も起こっていないかに見えるこの空間の病の徴候を山頂と街中の同一アングルの遠景でふと垣間見せる静かで恐ろしい90分のフィルム。『塵』はそうした映画史をくぐり抜けて、最後に最も偉大な名にたどり着く。ジョン・フォード・・・冒頭のシェーストレム同様にあらわれる、『幌馬車』の曲と引き延ばされた土埃と粒子の光と影。だが観客がその後でふたたび撮られた雲混じりの現在の青空の画面に抱く感情は、例えそれまで展開されてきた言説たちを「フィクション」(仮説)だと高をくくったとしても、決してもとのままではいられないはずだ。

(2008.10.2)


©Akasaka Daisuke

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