new century new cinema vol.1 ペーター・ネストラー&フランス・ファン・デ・スターク

「一本の映画はいつ本当に重要になるのか?どんな点で観客や自分にとって重要になるのか?そこには非常に多くの物事を含んでいるのですが、その重要さは説明できないままです。・・・多くの映画作家は忘れ去られたり後になってから再発見されたりするしかないのです。人はよくこう言います。どうしてこんなに才能のある映画作家たちがその時代に認められなかったんだろう?と。」実はこう語っているペーター・ネストラーという人、戦後ドイツ最高のドキュメンタリー映画作家と言われる人なのだが、そもそもこの人自身が1965年にドイツ国内での映画製作の資金を得られなくなり、妻の母国スウェーデンに仕事の地を求めざるをえなかった「忘れ去られた映画作家」のひとりでもある。近年国際的にドキュメンタリー映画への急速な注目もあって再評価され、一昨年はウィーン国際映画祭で大規模な回顧展が行われたりしている。私自身の企画上映「New Century New Cinema」で紹介させていただくのは『逃亡』という2000年のヴィデオ作品で、ユダヤ人画家レオポルド・マイヤーがナチス占領下のフランスでゲシュタポとフランス警察に追われながら各地をさまよった軌跡を、やはり画家である息子のダニエルとともに辿るというものである。最初に見た彼のラップランドの環境破壊についての傑作『Die Nordkalotte』、エクアドルの自然と歴史と人々を扱ったもう一つの傑作『パカママ、わが大地』以来、驚かされるのは、普通の日本人がイメージするドキュメンタリー映画につきもののスキャンダラスさや煽動性がまったくと言っていいほど感じられないことなのだ。

『逃亡』は画家マイヤーの逃走した北フランスの風景、彼の残した絵、息子が撮影中に描く作業と作品で占められている。80%以上が風景と絵画からなる作品に監督と息子によるコメンタリーが読まれるのだが、私自身ドイツ語がさっぱりにもかかわらず、とにかくそのリズムと画面にまず引き込まれてしまう。遠景画面を撮影することにかけて、ネストラーはただ天才としか言いようがない。それを目にした瞬間にもっと見ていたいと思わせるような画面、日頃フィルターや照明で過剰装飾された映像とまったくかけ離れた澄み切った画面のセンスに、カットごとに変わる音が現われる時の衝撃は、他のドキュメンタリーはおろか、フィクションにおいてもありえない。ネストラー自身「私の多くの映画では、何かをあらわにしたり、同時に、観客に考えさせるために、音を消去したり音が不意に加わったりします。音を取り去ることで強調をも創造することができます。それが何であれ、何かが観客の心に届くのです。」と語っているが、その音響作業のあまりの繊細さには、例えばゴダールでさえ何とも大袈裟に思えてしまう。そして数多く登場する画家のデッサンや絵の、全体の、そして断片のとらえ方のすばらしさ。後半に進むにつれ絵も色調も暗くなり、絶望的な何かを語りかけてくるが、ネストラーは過剰な情報操作を付け加えたりせず、ひたすら絵がさまざまなものを語っているに委せるのだ。

今回同時にフランス・ファン・デ・スタークの短編『Sepio』を紹介できるのは望外の幸運としか言いようもなく嬉しいことだ。これまたジャン=マリー・ストローブやヨハン・ファン・デル・コイケンといったヨーロッパの巨匠たちからその作品を絶賛されながらもついに名声とは全く無縁のまま2001年に世を去ったオランダの映画作家である。これまた驚くのは、デ・スタークは過去映画ではロベール・ブレッソン以外なし得なかった「顔の非中心化」、つまり台詞と結びつくことで顔が特権的な位置を占めてしまう劇映画に対して、顔からの距離と、手足や背を語らせることで身体の他部分の映像を解放しようとする偉大な実験の後継者なのだ。しかもブレッソンのように完全に動きを様式化するのではなくよりドキュメンタリーへと近づくことで、ブレッソンの試みを解放するという驚異的に斬新な映画なのだ。映画は「恋人を待っているという設定で過ごす女優」の日常をただ撮影するだけである。オランダ風俗画の伝統に連なるすばらしい遠景、生々しい手足のクローズアップ、詩の朗唱がナレーションで語られるのみの、おそろしくシンプルな語り口。顔を中心に置かず語りの決定的な役割を避ける天才的な距離感が被写体となる女優の存在感をいっそうあらわにする。

デ・スタークの他の作品は例えば謎の行動をする一人の登場人物を複数の俳優が演じたり、ひとり3役を演じる女優の演技指導をする演出家といったような、フィクションの設定を口実に演じる身体と空間のドキュメントであるような作品を撮っている。それは撮影当時まったく理解されなかっただろうが、まさしく「今こそ」最も重要な作品なのだ。デ・スタークは、ブレッソンが自ら袋小路に招き、さらに彼の崇拝者たちによって閉じてしまったそのフォルムと世界への接点を新たに開いてくれる。また彼とファン・デル・コイケン(ウィレム・ブレイカーが音楽で協力した初期のドキュメンタリーは今こそ紹介さるべきでは?)やハリウッドで活躍するポール・バーホーヴェンをその隣においてみると、20世紀末のオランダという国が、今日の映像に与えた何ものかの重要性が際立って見えてくる予感がするのだ。

字幕なしで一度しか上映できないのが残念なのだが、これらは現代映画の最前線の作品として未来に新しい扉を開く作品である。偶像崇拝と視線誘導に身を委ねることと俯瞰の思考の欠如が扉を閉ざしてしまっている日本の現状に何かを届かせるだろうか?なお併映のポルトガルの新人サンドロ・アギラールの『Remains』はスコット・ウォーカーの「行かないで」に合わせて廃虚地下のクラゲが泳ぐ、ちょっとアルタヴァスド・ペレシャンの作品を思わす美しい短編だ。

(初出 月刊ラティーナ2003年9月号)


©Akasaka Daisuke

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