カール・ドライヤー特集

「ドライヤーは私が最も賞賛し、評価する監督だ。それに『ゲアトルーズ』は最も並外れて勇気ある、より進歩的な現代映画の真の先駆けになった映画だと考えている。」(マノエル・デ・オリヴェイラ)・・・というわけで、待望のデンマーク出身というより20世紀映画の巨匠、カール・ドライヤー特集である。この原稿を書く前に新しい35ミリプリントを2本スクリーンで見直してみたのだが、改めて・・・というか、遺作になった『ゲアトルーズ』でさえ40年近く前の映画なのに、たとえばドキュメンタリーとして劇映画をとらえなおすという思考、不可視とされるものをスクリーン上に見えるようにするための映像と音の使用など現在の映像の問題を予知したかのような時代への遥かな先行ぶりに驚嘆させられ、やっぱりこの人って本物のサイキック映画作家だったんだろうか?という考えばかりが浮かんでくる。霊や催眠術を研究していたとか、黒白しか撮らなかったにもかかわらずの色彩心理学への傾倒とか、果ては精神病院に入退院を繰り返していたりというエピソードは数々の異常な傑作を見ればさもありなん、と納得してしまうようなものばかりだ・・・。

ジャンヌ・ダルクを扱った映画で超有名な『裁かるるジャンヌ』の顔のクローズアップの連射、レ・ファニュ原作の元祖霊界映画『吸血鬼』の死体の主観、『怒りの日』の魔女の火あぶり、『奇跡』のキリストの憑依と死者の復活・・・とこう活字にしてみると今のCG全盛時代のホラー映画の元祖ですか?という読者もいるだろうが、全くそうではない。というのもとにかく彼の作る映像自体が異常なものなのだから、というよりサイキック映像作家からみた世界がこうだからか?そうは言っても超能力者や霊能者が作った映画だから面白くなるわけではないが・・・。まず俳優たちの異様な呪文のように聞こえる台詞回しとテンポからして普通の芝居などというものではない。俳優たちを取り囲むのは常に過剰なまでに真っ白な壁のセットだ。おそらく同時代の『吸血鬼ノスフェラトゥ』のムルナウや『ドクトル・マブゼ』のラングら20年代ドイツ映画がそうしたように、キャメラの動きに合わせて建てたとしか思えないセットの中で、『怒りの日』以後は特に複雑化する長回し撮影が、『愛と怒り』の一編が明らかに影響を受けたベルナルド・ベルトルッチ言うところの「不随意な」、というか不可思議な動きで異常な感覚をもたらす。それに加えて時計のコチコチという音が人間の足音よりも大きく聞こえ、そのためまるで登場人物全員が幽霊であるかのように感じられる不気味きわまりない音響の構築・・・。

ドライヤーがいつでも完全に自分の世界をスクリーン上に作り上げようとした監督だったのは確かなのだが、今見るとそれはけして閉じられた世界ではなく、『ゲアトルーズ』の若い愛人作曲家に溺れる次期閣僚夫人ゲアトルーズの密会シーンの公園の池に広がる波紋や、室内でのゲアトルーズと元愛人だった詩人との長く複雑な対話シーンで垣間見える俳優たちの無意識の動き(例えば詩人役の俳優エッベ・ローゼが前を向いたままの姿勢で腰掛けようと必死にイスのひじ掛けをたぐる指の震え)のように、コントロールする力と予期せぬ動きのスクリーン上の遭遇を誘発し、それが異様な緊張をいっそう異様な極みへと高めていく。いわばドライヤーはドキュメンタリーの持つ力さえもその異常なフィクションを生き延びさせるために使えることを予知していたのだろう。そしてそれは現在活躍する世界中の映画作家たちに強力な霊力を及ぼし続けている・・・。

『牧師の未亡人』『あるじ』などの作品から今感じ取れるもう一つのことは、すでにサイレント時代からドライヤーが時間の連続性に執着していたということだろう。もしかすると『裁かるるジャンヌ』は本来ジャンヌのクローズアップだけで撮られるはずだったのではないか?そう考えれば後年、突如 極端な長回しに転じたわけではなく、トーキーによる音の出現やカメラやマイクなど技術的な手段の軽量化に遥か先んじて、それらが可能にするはずの事物や人間の顕微鏡レベルの変化を観察させる時間の連続性の具現化を探し求めていたというのが本当なのだろう。ワンシーンをリアルタイム、省略なしの一幕の劇を見るかのように構築し、『怒りの日』の「魔女を殺せ!」と叫ぶ群集の狂気の声や、魔女の夫への殺意を誘う嵐の音のように、画面の中で見えない音を追求すること、そこでドライヤーは『ロープ』『鳥』のヒッチコックに近づく。その中でこそ超現実的な出来事がリアルな感覚をもたらすのだが・・・それはCGによって何かを付け加えるごとに画一的になってしまい、結局派手なシーンをてんこ盛りしなくてはならなくなる今の大作の元凶がいったい何かを理解させてくれる。

またもうひとつ気づくのはドライヤーの映画の高度な喜劇性である。『牧師の未亡人』のようなコメディはもとより、『奇跡』や『ゲアトルーズ』のような晩年の厳格な名作においても笑いがある。特に『ゲアトルーズ』の絶対の愛を追い求めるヒロインは、昔のよりを戻そうと言い寄る詩人から若い愛人が陰では自分を嘲笑していることを聞いてしまい、さらに別れようとしている夫の対面のためにその愛人の伴奏で歌う羽目に陥ってしまう。このシチュエーションは間違いなくコメディだが、ドライヤーは笑いと同時に、この中年のヒロインの気高さと官能性をも長いワンショットの中で提示してのける。そして晩年の頑固で悲しくどこかおかしいが、なお気高さを失わないヒロインが最後に観客に向かって(実際は会いに来た友人に向かってだが)手を振るとき、あらためて劇映画というものがたどり着くことができる高みというものにただ驚かされるのである。

(初出ラティーナ2003年10月号)


©Akasaka Daisuke

texts/archives 、