時の止め方、進め方

今回はまず今年生誕100年を迎えるマノエル・デ・オリヴェイラの今のところ最新作である『コロンブス 永遠の海』(2007)の冒頭を取り上げてみます。この映画はアメリカに移民し「コロンブスはポルトガル人である」という学説を唱えたマヌエル・ルシアーノ・ダ・シルヴァ夫妻の旅を描いた素晴らしい作品ですが、この最初のシーンだけでもオリヴェイラという人の映画の特質があらわれています。まず一つは若い兄弟がポルトガルの港からアメリカに出発しようとしているのですが、見た目として挿入されるロングショットが記録フィルムなんですね。そしてポルトガルの国旗の色のコスチュームを着た天使のような女の子がこの兄弟といっしょに乗船するのですが、彼女は映画で描かれるすべての「時」を通じて登場していますが、登場人物たちはまるで彼女が見えないかのようにふるまっています。さらに港で工事している人々の服装が現代のもののままです。またさらには兄弟を見送る母親らしき女性(レオノール・シルヴェイラ)と船に乗る兄弟の切り返しショットが小津のようにイマジナリー・ラインを無視して編集されていて、まるで別の方向を見ているような気がします。これらの一連の要素は、映画というものが実は劇映画であってもその撮影時の記録であるということ、それは編集によって作られていること、等々をあらためて観客に分析させます。そして延々と続く空の凄いロングショットにずっとピアノ曲が流れているのですが、テレビなら下手するとこれで放送事故です。つまり現在我々が「自然」だと思っている日常のリズムは、メディアのバラエティやトークショーによって作られる間断のないリズムに少なからず影響を受けているんですが、このような長い画面はメディアがインフォメーションに特化するリズムに対して一種の批評でもあるんです。この映画でオリヴェイラはロングショットをふんだんに使ってくれるんですが、後半では何とこの時点で100歳近いオリヴェイラ夫妻が主人公を演じてアメリカを旅して、10分近い固定画面のワンカットを何回もやってしまうという凄まじいことになっています。一つなど自ら車を運転してきて脇に寄せて止まり、夫妻が出てきて道路を横断して浜まで歩いて海を眺めるというかなり危険なカットです。日本でもオリヴェイラの100歳記念テレビ番組を作るそうで担当の方にあれこれ聞かれたんですが、ぶっちゃけこの映画を黙って見てれば凄さがわかるだろという感じです。

 

このようにしばしばすぐれた作家は遅行のリズムで映画を作っていますが、そのために画一化されたリズムの中では見えなかったものが見えてくることになります。実際トークショーやバラエティでは話している人しかカメラに写りませんし、ドラマでは意図やインフォメーションが明確にされている画面しかありません。テレビは一日6,7時間以外は同じインフォメーションか再放送か予告の反復で時間を埋めている状態で、エコロジー的にはその時間はいっそ放送をやめてしまった方がエネルギー削減になるはずです(笑)。でも我々の大部分の時間は本当はそうしたものではなく、しばしばじっとしていたり黙っていたりするわけでして、何か行動を起こしたりアイディアを持つために非常に長い待機の時間を必要としていたりします。なので現在の世界の野心的な映画作家たちは、テレビや他のメディアが描かないような非常に長い時間での変化やリズムを見たり聴かせたりしようとしています。例えば今スペインのカタルーニャ州の若い作家たちが国際的に評価されてきていますが、いくつかの作品を見てみると、やはり「時」を主題や被写体にした共通点が見出せます。

例えばアルベルト・セラという人の『騎士の名誉』Honor de Cavalleria(2006)という作品は、セルバンテスの「ドン・キホーテ」の主人公ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサの旅の日常を顕微鏡的に追ったらどうなるかという映画です。ほとんど何も起こらない中世の草原の二人の男の旅の日常をキャメラが凝視し続けるわけです。中には夜中の月が空に上るまでワンカットで二人がじっと座っているだけのカットさえあります。またメルセデス・アルバレスのEl Cielo Gira(2004)は監督の祖父の村の人々を描いた作品ですが、ほとんどロングショットで時が静止したように感じられる背景のなかでの老人たちの生活が緩やかなリズムで展開されます。もともとこの地方は反フランコ政権活動家でブニュエルの『ビリディアナ』製作やジェス・フランコの『ドラキュラ伯爵』の撮影を黒白で撮ってシンセ音楽を付けてドライヤーへのオマージュ映画にしてしまったVampir-Cuadcuc(1970)で知られるペレ・ポルタベーリャ、同じくドライヤー的な白い壁とオフスクリーンの活用が興味深いContactos(1971)のパウリーノ・ヴィオタ、さらにビクトル・エリセ以後の代表的な作家と言われるホセ・ルイス・ゲリン(ポルタベーリャの製作による『影の列車』Tren de Sombras(1997) や『工事中』En Construccion(2001)は凝り過ぎの感はあるけれどやはり非常に興味深い作品です)やマルク・レチャといった人々が「時」という主題を扱ってきた伝統があります。ゲリンやアルバレスはエリセの『マルメロの陽光』がエポック・メイキングな作品だと言っていて、実際エリセのあの作品はドキュメンタリーとフィクション、時間といったものを扱っており、DVが普及した現在の目から見るとフィクション寄りの映画に見えるかもしれないのですが、作家個人の文脈ではなくこうしたパースペクティヴの中で見直してみると別の意味で重要な作品として見ることが出来ます。

 

また時の主題はチリやポルトガルの若い作家にも例が見られます。チリの若い作家ホセ・ルイス・トレス・レイヴァのObreras Saliendo de la fabrica(2005)(『女たちは工場を出る』)は製糸工場で労働に従事する女性たちの一日の時間を切り取った台詞のない映画ですが、空間と背景に響くノイズで女性たちの環境の抑圧と解放を描ききっています。冒頭で疲れた中年女性の耳鳴りから始まり、若い女の歩みをトラックバックでとらえる画面が工場の外から中へ入り、製糸作業をする女性の騒音から作業後の工場の出口の風や鳥の声まで、この作品のサウンドは後から作っていると思われる箇所がありますけど、凝視する画面の時間と編集によって新たな画面が繋がれる瞬間に賭けている作品です。チリでは去年から今年にかけて帰国したラウル・ルイスがテレビ用に野心的なシリーズを何本も製作して話題を呼んでいますけど、一方では他にもホセ・ルイス・セプルヴェダのような新しい作家たちが登場してきています。またポルトガルではウーゴ・ヴィエイラ・シルヴァのBody Rice(2006)。彼はサンドロ・アギラールなんかと同様にペドロ・コスタ以後の新しい作家ですが、1990年初頭にドイツ人の若者たちがアレンテージョ地方の何もない田舎に集まってきてジョーイ・ベルトラムやXmal Deutschlandなんかの曲をかけながらただドロドロとドラッグに溺れている日常を描いた作品です。こんな映画を国家の助成金で撮ってしまっているから凄いのですが、野原にアンプを積み上げ縦ノリで踊っている人々をダラ〜ッと横移動で流していくところはパウロ・ブランコ製作のせいかアントニオーニ〜ヴェンダースのラインを引き継いでいる感が濃厚な映画ですが、運転中に震えが止まらなくなったり盗みに入ったり、果ては何人もの女の子たちが床に転がってぶっ倒れているところは不気味な身体の即物性を感じさせます。

 

ところで、これらの作家たちの国はそれぞれ20世紀後半まで独裁や軍事政権下にあり、今もその当時政府によって殺されたり行方不明になって今も所在がはっきりしない人々がいたりします。それらの人々は消えた時のイメージのまま固定され、ルイスの作品Cofralandesの中に描かれているように、言わば幽霊化しているといっていいのですが、それとは別に、今は世界的に映像の過剰やアーカイヴ化という現象もあって、ハイパーリアルなやたらと美しい死者のイメージが氾濫し、救いになるはずが生者を脅かすような事態にもなっています。さらにアニメーションにしてもそうですが、CGは不完全なイメージを提示できないという欠陥があります(それが不完全だと感じられるのは使用している技術が古くなった時です)。でもこの世界は完全なんかじゃないのです。だから生者の我々としては正気を保つために、いっそう個々の映像を成り立たせた当時の製作条件や記録的側面を分析したりする必要に迫られるのです。なぜなら諸個人がそれぞれ時というものを受け入れるためには、単なる美しいというだけでないイメージが必要だからです。そして現代の優れた映画作家たちの作品はそのことを観客に考察させる手助けをしてくれるはずです。なのにそれらは映画祭などで奇妙な孤立した作品テクストとして消費されてしまうのですが、実はあるパースペクティヴの上に並べてみると、非常に重要な何かが見えてくるはずです。ところが今の書き手たちはこうしたパースペクティヴを得る努力を怠ってしまい、ただ上からものを言うだけになってしまっているのです。

ここに堀禎一の新作『憐-Ren-』を置いてみるべきでしょう。すでに伊藤洋司氏による見事な評(週刊読書人 6/20号)がありますが、この映画は物語の上でも「時」を扱っていますし、新しい世界のパースペクティヴの中に置くことで、この映画の新しさと美しさがいっそうはっきりするからです。これは未来世界から流刑者として送られてきた人物が一人の女子高生(岡本玲)の形をとってあらわれる(冒頭のオーバーラップの写真の交替で示される)という設定のSF物語ですが、原作の小説とは異なり、支配者である「時の意志」の命令を上から伝える監察官という人物の代わりに、ひとりの転校生である少年(中山麻聖)がこのミステリアスな事態の解決の「鍵」となる人物として登場します。素晴らしいのは、このアダプテーションのために、いったい郊外の高校生の日常で展開されるこのサイエンス・フィクションを本気で受け取っていいのかあるいは堀の前作『妄想少女オタク系』のような女の子の妄想のイメージなのか、また仮に本気だとしたら進行する事態がいったいどうなっていくのか、が二重に非決定なまま宙吊りにされることです。この映画の長い画面は宙吊りと演出における賭け〜その画面は果たしてうまくいくだろうか〜で満たされています。見事なクライマックスの13分ほどの川辺の長い固定画面は一気に事態を説明し解決するセレモニーのはずなのですが、それが終わった後も事態は真に解決したとはみなすことができるのかどうかわかりません。そしてその不思議さがこの映画を今年の最も美しい一本にしているのです。

 

(2008.6.25 / 講義の採録ではありません)


©Akasaka Daisuke

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