今日のヴィスコンティ

1、ルノワールとロッセリーニと

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のクララ・カラマイから『イノセント』のジェニファー・オニールやラウラ・アントネッリまで、帽子とヴェールを被っていた女たちについてヴィスコンティが作り上げた傑出したシーンをあれこれ思い出して見ると、もはや映画史的位置づけがなされてしまったかに思われる彼の映画になお今日的で観客の目を覚ます新たな力が潜んでいるのか考えてみたくなる。

ジャン・ルノワール『トニ』の助監督となり後に手渡されたジェームズ・M・ケインの小説を翻案することになった『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、いくつかの点で『トニ』の「模写」から出発した映画である。ただ場末の女が身につけるにしては気品を帯びているあの帽子とヴェールやゲイ的要素、第一作にして早くもあの「貴族的な」人物の立ち居振舞いの洗練が見られるとはいえ、今見ると師匠の画面作りに比べるといかにも穏健なものだ。『トニ』の石切り場を爆破するシーンを見守る人々を画面込みで近距離からとらえるシーンや、岸に向かう舳先に女の体を抱えて立ち浅瀬に着くとすぐさま砂浜へと抱えて運ぶロングショット、または『十字路の夜』の真夜中の田舎道をスポットライトで照らしながらオープンカーで爆走する銃撃戦など、危険きわまりない撮影を敢行したルノワールの狂気の隣に置いてみると、若いヴィスコンティの演出のほうがかえって保守的な手堅さのうちにあるように見える。

では相変わらずネオレアリスモの代表として比較されてしまうロべルト・ロッセリーニとはどうかというと、一つのシーンを見てみるだけでその違いが一目瞭然である。画面の一つ一つを一つの絵のように撮影し編集するヴィスコンティに対し、『無防備都市』以来ロッセリーニは一つのシーンを一続きのアクションとして構築する。『揺れる大地』の「貧しい農民たち」の長い画面、例えば波打ち際で男の乗った船を見送る女たちのシーンが選び抜かれ美しく「汚された」衣装と背景で完成されたフレスコなのに対し、『ヨーロッパ一九五一年』はシーンの中心となる長い画面の連続性を損ねることなく別の画面を挿入することでシーンを組み立てる。一つのシーンにおいてロッセリーニが尊重していたのは別稿でしばしば述べたように「出来事とそれが起こるまでの待機の時間を一連のものとして描くこと」であり、それは誰よりもジャック・リヴェットの作品に受け継がれているものである。この点から見ると例えばミケランジェロ・アントニオーニの長篇第一作『ある愛の記録』は、ロッセリーニ的であるよりヴィスコンティ的であると言える。アントニオーニ自身がしばしば自分はロッセリーニから出発したことを語っていたとしても、犯罪の露呈に怯えるカップルの物語という点以上に、ショットの構造として、『ある愛の記録』はむしろ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のほうに近いのである。ヴィスコンティ同様「画家」的であるアントニオーニは、ロッセリーニが発見した被写体としての時間より空間に優位をおいていくのである。

2、ズームと凝視

フレーム内の空間を事物で隙間なく埋めるキャンバスのように扱うヴィスコンティとキャメラを顕微鏡のように扱うロッセリーニの線は晩年にいたる道程においてもまた交差する。時代劇とズーム使用という点でである。ヴィスコンティの映画が「豪華でよく調和したほとんど絵画的な背景に、ドキュメンタリーの厳密さを課そうと熱中する」(アンドレ・バザン、映画とは何か、小海永二訳、美術出版社)ゆえに多くの観客を惹きつけるのに対し、ロッセリーニの時代劇(教育映画)はこの種の本当らしさにまったく興味を持っていないように見える。彼は後期の作品『ヴァニーナ ヴァニーニ』や『元年』や『ロゴパグ』第一話において、明らかに書き割りとわかる背景さえ登場させる。マニャーニと撮った『人間の声』からバーグマンの『火刑台上のジャンヌ・ダルク』以後のロッセリーニの映画は、『ロベレ将軍』以来登場人物の主観ショットの挿入をやめてしまうかわりに、ズームを使って一定の距離を保持し人物を観察し続けることに専心する。その距離と時間の尊重からくる力こそベロッキオやオルミ、パオロ・ベンヴェヌーティら現代イタリア映画の中心的存在を論じる上でなおロッセリーニを論じずにすまされない所以なのである。

ヴィスコンティのズームはロッセリーニに比べて「古典的」とは言えよう。おそらくヴィスコンティは冒頭の屋外を除けばほとんど全編がズームとパンの徹底した併用で撮影された『ローマで夜だった』のように、距離感自体が映画の生命線をなしている驚くべき瞬間を作りえてはいない。だがヴィスコンティのズーム使用は自身が説明するように、複数キャメラの使用を伴って、舞台の俳優たちをよりよく近くから、演じている本人も思いがけない瞬間を素早く発見する、凝視しようとする視線であり、その欲望と一致する運動が魅惑的なのだ。この凝視する視線は晩年のヴィスコンティに最も美しい瞬間をもたらす。ルートヴィヒが招いた俳優のつまらない朗読にも感動をあらわにするシーンや『イノセント』のジェニファー・オニールが競売場でジャンカルロ・ジャンニーニに気づいて歩み寄るクローズアップがそうだ。さらに『イノセント』のリラ荘のラウラ・アントネッリが、眩い緑と光を背景にジャンニーニを拒みつつ唇を与えてしまう美しいシーンで、フランコ・マンニーノのピアノの旋律が止まろうかという一瞬によろめくアントネッリを抱きヴェールを上げるジャンニーニに近づくズームは到底忘れられるものではない。また『ルートヴィヒ』の天井画の描写をなぞるようにズームを引いて行きながら乱痴気騒ぎを終えて寝静まった男たちをおいて王が独り立ち去っていくのを見せるシーンのように、あたかも絵画の細部をキャメラでなぞりながら急にその全体が姿を現す圧倒的な感覚をもたらす時、晩年のヴィスコンティがシネマスコープを好んで用いた理由が察せられる。

  3、晩年のコメディ

このようにヴィスコンティの映画は一貫して連続性よりは各ショットの絵画としての完成(それゆえかロベール・ブレッソンは撮影監督パスクァリーノ・デ・サンティスを自作に迎えている)と、リスクを負うよりは上質の趣味に囲まれた洗練を志向する「古典的」作品群と言い切ってしまっていいだろうか。だがこの「古さ」を受け入れた上で、むしろ現在からヴィスコンティを見る上で面白いと思われるのは、かつてジャック・リヴェットが1981年にシネマトグラフ誌のインタビューで「ヴィスコンティの作品は優れた喜劇的な力を持った滑稽な映画として見るべきだ」と言っている視点である。貴族のような「すでに失われた階級」とコメディと言えば、当然先行者としてまたしてもルノワールと『ゲームの規則』を思い出すべきだろうが、ここではよりヴィスコンティの映画を反芻させてくれる後の作品を考えてみよう。例えば『イノセント』の二人の女性の間を右往左往する主人公の振舞いは、その数年後に撮られたマノエル・デ・オリヴェイラの『フランシスカ』に描かれるポルトの主人公が女性を支配しようとして挫折する振舞いと共通点がある。しかしオリヴェイラは主人公と女性を争って敗れ傍観するしかなかった男カミーロ・カステル・ブランコの視点を、さらに原作者のアグスティナ・ベッサ=ルイースという女性の視点を通過することで、「狂気の愛」と呼ばれるものの滑稽さをこれ以上ないほど暴いてみせる。つまり『フランシスカ』は『イノセント』の喜劇性を演奏している作品だとも言えるだろう。あるいはファスビンダーの『十三回の新月のある年に』。同じマーラーの交響曲が冒頭に響くファスビンダーのこの映画は、『ベニスに死す』の滑稽さをこれ以上ないほど明らかにしてくれる作品ではないだろうか。ブレヒトを通過したトランスベスタイズ(当然彼女?も帽子とヴェールを身につけている)の悲喜劇は老音楽家の化粧シーンに笑える距離を導入してくれる。さらにティム・バートンの『バットマン・リターンズ』でダニー・デヴィートが演じたペンギンはニュージャーマン・シネマを通過して近未来に出現したルートヴィヒだし、マイケル・チミノがワイラー作品をリメイクした『逃亡者』でのミッキー・ロークへの照明もまたアルマンド・ナンヌッツィが狂王に注いだそれを思い起こさせる。それらの喜劇性はリヴェットの言うように「皮肉は感動の妨げとならず、逆に感動を呼ぶ」ヴィスコンティ作品にすでに内包していたものに光を当ててくれるように思われるのである。

(初出キネマ旬報2004年10月下旬号に加筆)


©Akasaka Daisuke

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