「仕分け」

同じような体育館の机のセットを舞台にしたロバート・アルトマンの『軍事法廷/駆逐艦ケイン号の叛乱』を見たことがない人によって撮られただろう素人すぎる撮影に比べれば定点カメラのほうが遥かに見やすいポジションのはずなのに、どういうわけかこれが見続けるのが不可能なちっぽけなフレームになってしまっていて、明らかに音声の優位と画面の従属が成立してしまった「事業仕分け」のネット中継は、さすが玉音放送の「音声」で終戦を知らされた国の伝統というか、相変わらずオーソン・ウェルズの「火星人襲来」放送に操られてしまった時代の感性だなとしか言いようがない。しかしそれにしても数十兆の金を扱う現場がcurrentviewers1300〜1500の視聴数でいいわけない中で、またぞろ映画祭助成の議論では相変わらず「アメリカは映画産業に助成なんかしたことあるのか」「フランスは助成があったから衰退した」とかいう時代遅れで認識のない馬鹿による発言が飛び交っていて、こっちはもういいかげん「合衆国はイメージや映像を兵器と見なしているんだから我が国も国防予算としてパトリオットみたいに政治判断でむしろ倍増しろ」とか「フツーの映画より助成金貰ってる製作当時何だかわからないと言われる映画の方が何度も見られるから後世に残ってるんだよ」といった少しは進歩した発言を聞きたいのだ。

まあ助成などされたことのないシネクラブをやっている身としては関係ないわなの一言で終わってしまうのだが、あらかじめ儲けが予想できないと出さないのは助成金とは呼ばないし、書類審査に時間かかり過ぎで使えないこと夥しいわけで(大体効果的に即アシストしてくれるのは相手方の国の場合がほとんど)、それが理由でかえって保守的な古典もどきの映画だらけになってしまっている現状を考えれば削減もやむなしだろう。それより例えば現在の東京がすっかり黄金時代の邦画名画座化しているのはいいこととは言え、それが映画の骨董品化と観客の歴史的現在に対する感性を奪う結果につながる危険はあるし、何より大半の客がノスタルジーに飽きて潰し合いにならないうちにもっと個別の自主上映(特に外国語字幕費用+35ミリの場合の輸送費)に助成できるようにすべき(経験的に言うと先方がフィルムやDVDの上映権利を半永久的に貸与してくれると言う人々もいるが、無論タイミングや時代状況や人にも左右される)である。早く手を打たないと「生命の論理」のフランソワ・ジャコブが言った「閉じたあらゆるシステムはいずれ死ぬ」というのがオチかもしれない。

この長時間の「見せ物」が仕分け作業の工程のすべてでないのがわかっていて、スラヴォイ・ジジェクのように「寿司は料理のプロセスを公開しているからマルクス主義的だ」とか言う暇があったら冷静にフレーム外の隠された部分を想像する(もしテレビで言うように「日本中が注目している」ならDVD発売されるだろうが、おそらくその頃には忘れられているだろう)のが普通であるなら、このイベントの重要性は「すべてを公開する」というイメージ(幻想)を与えることなのだろうか。テレビ的にはそうだろう。メディアはすべてをフレームの中に入れるという幻想を抱かせる。それに対して映画の巨匠たちはブレッソンやロッセリーニから(42)のキアロスタミまで常にフレームの限界を提示してきた。おかしなことに、ブレッソンやロッセリーニはともに一時期リアリズム、ドキュメンタリー的と形容されてきたこともあったのだが、多メディア時代の現在では写っているものと写っていないものを示し観客/視聴者をイメージ(幻想)から解放する人々として見られるべきなのである。また音声のインフォメーション優位の状況を潰乱させる試みもなされるべきであって、

(2009.12.3)


©Akasaka Daisuke

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