ベーネ〜オリヴェイラ バロック?とブレッソン

「戦争待望論」や「徴兵論」が自分が真っ先に戦死することだけは想定外にしているように、相変わらずフレーム外への想像力を欠いた視聴者への「排除」というテレビ的な操作が蔓延している現状がみてとれる。つい最近でも現代思想2007年10月臨時増刊号「総特集=ドキュメンタリー」の執筆者たちの誰もが「ドキュメンタリーとフィクション」を語りながら劇映画にまったく言及していないがゆえにかえってフィクションの力へのネガティヴな姿勢や閉鎖性を明らかにしてしまっているが、それはまるでハリウッド映画か日本映画しかこの世にないかのように語る人々の言葉と同じくらい滑稽である。こうした操作に抗するために観客の想像力に働きかけてやまなかったロベール・ブレッソンが残したフレーム外の仕事がますます重要になってくるし、カテゴライズなど不可能ゆえに昔も今も黙殺されている『火刑台上のジャンヌ・ダルク』『インディア』『鉄の時代』の時期のロッセリーニを参照することが急務になってくる。

    

死の直前のインタビューで『湖のランスロ』に言及していたカルメロ・ベーネの『マクベス ホラー組曲』(1996)は、その前年に自殺した「重合」の共著者ジル・ドゥルーズとアントナン・アルトー生誕百年に捧げた作品だが、『ラフォルグによるハムレット』(カラー・シネマスコープで撮られ劇場公開された最後の作品『マイナスのハムレット』の翌年に黒白で撮影された)や『オテロ』(1979年に撮影され、死の直前2001年に完成した)同様に、テレビのために撮影され、よりシンプルな舞台装置と動きのない固定画面と編集によって、一見舞台中継の記録のように思われるが、実はそう単純ではない。

冒頭、左右に巨大な扉が立っているベッドに腰掛けている甲冑を着た中年太りで白塗りの男ベーネ自身が頭と手に巻いている血染めの包帯をゆっくりとほどいていくとどこにも傷がなく、画面外から聞こえてくるヤギや犬やらの鳴き声に呼応して吠え出すシーン(江戸家猫八というかカミロ・マストロチンクエの『トトとペッピーノと強盗』というよりジェリー・ルイス的で、さらにジョアン・セザール・モンテイロの『JWの腰つき』の冒頭タイトルに響く動物の声も想起される)からしてコミカルであり、魔女の声に操られるマリオネットというより、もはや自分をマクベスと思い込んでいるたんなる病人の一連の行動の観察のように思える。マクベスはシンセサイザーによって変えられた自分の声のプレイバックに合わせて歪めた口を動かし、鎧を着ようとして放り出し、ハンカチをひらひらと子供のように振り回し、白の厚化粧は剥がれ落ち、最後には惚けたように転がり崩れ落ち続ける。この芝居のもう一人の登場人物マクベス夫人もまた夫に甲冑を着せてセックスに失敗し嘆く夢遊病者であり、速射砲のように台詞を朗誦し、鏡に向かって「Basta!」(たくさんだ!)と吠えるばかりだ。

  

黒と白の奥行きを全く欠いた平面的な立ち位置を見る者に把握させないセットで撮られた『ラフォルグによるハムレット』は冒頭のアイリスとセットからFEKSやエイゼンシュテインを想起させ、最後にはドライヤー的な真白で奥行きを欠いたセットの黒い棺の中にまるで吸血鬼のように登場人物が倒れ込み、玉座に登る王が甲冑を脱ぐと、白いマスクで透明人間のように「見えなくなる」。『マイナスのハムレット』以後のテレビ用の作品はそれまでの狂想的な高速モンタージュから離れ、遂には『マクベス・・』のセットの全景とクローズアップの同軸上のつなぎにまで単純化される。こうしたプロセスを目の当たりにすると、生前の証言ではまったく否定しているとはいえ、実は映像作品を撮った演劇人としてカルメロ・ベーネほど映画史を豊僥に反映している人はいない(日本の演劇人が映画を撮ると例外なく失敗する理由もその欠如にある)。だがそれはもちろんシネフィル的であることを意味しない。すでにドゥルーズが言ったように、ベーネの声と身体は特定の名前や作品に行き着く前に終わる、身振りと声の「プロセス」だからだ。

  

"Lorenzaccio"とともに遺作として完成した『オテロ』は、ドゥルーズに倣って言うと、オーソン・ウェルズの『オセロ』から多くのものを「差し引く」。ベッドに横たわり、瀕死となる人物の嘆きと独白、黒と白の混じり合う顔料、フェード・アウトの黒と白の交替、ベーネが一貫して執着し続けるハンカチやヴェールは闇に舞い人物を覆うイタリア無声映画以来の小道具だ。オセロがデズデモーナを抱くシーンで黒の顔料と白の化粧が剥がれ落ち、混合し、ヴェルディを背景にベーネの低い声と素晴らしいデズデモーナ役のミケーラ・マルティーニの高い声が交錯する。それはベーネの最高作というより今も間違いなくイタリア映画の最高傑作の1本と言える『サロメ』の「イメージの被爆」と言うべきラストシーンで目も眩む光の中でヴェルーシュカと魔獣のように絡み合うベーネのモノローグを彷彿とさせる。もっとも20年以上前に東京のイタリア文化会館での一度だけの上映で最前列の女性が恐怖のあまり出口に向かってハイヒールでダッシュしドアを蹴破った凄まじい光景とともに覚えているあのシーンのように幻覚的ではなく、『オテロ』のモノローグはむしろ荘厳さをたたえた叙情性のなかにある。すべての人物が大量の衣服にまみれ、寝転がり、つぶやき、微睡み、消える・・・。

  

『サロメ』とは別の意味で日本公開不可能と言われるマノエル・デ・オリヴェイラの『繻子の靴』をこの脇においてみるとどうだろうか。(22)の最後でふれた『夜顔』よりも、本当ならこの巨匠の出身地ポルトの町を扱ったもう一本の傑作『画家と町』とともに上映されるべきだったがとりあえずやっと公開される必見の『わが幼少時代のポルト』をもさしおいてしまうのは、この6時間50分の怪物的な作品の、スペインのTrack Media社から出ているDVD(画面の傷やら音もところどころ割れてるしおまけにラストシーンが完全に入ってない・怒)が、最初から最後まで観客が見るためにはこの長時間を集中できる映画館という場所がぜひとも必要なことを逆に証明しているからである(だから2005年の原作者クローデル没後50年記念上映の中止は本当に残念だった)。冒頭のエキストラである観客の劇場への入場シーンから口上〜上演へのワンシーン・ワンショットに始まり、2日目第2場の「抑えがたき男」が振り付けられている「裏方」に指図しつつ口上を述べる道化的導入からドニャ・プルィエーズ(パトリシア・バルツィク)の長大なクローズアップまで、あるいはパラジャーノフ的な二人羽織で登場する聖ヤコブからメリエス的な月のモノローグ(マリー=クリスティーヌ・バロー)まで、とにかく10分近くの怒濤の朗唱が休みなく続くシーンの連続で成り立っている「上演の映画」の核心を貫くのは、オリヴェイラがドキュメンタリー作家として、ちょうどジャン・ルーシュが『メートル・フー』で儀式を発見したように田舎の村で行われていたキリスト受難劇を偶然発見した『春の劇』以来の、劇映画を「上演+フレームが作る時空間」に解体する距離への確信である。

ここで全く異なる映画、だが2007年の最も素晴らしい映画の一本である堀禎一の『妄想少女オタク系』に言及するのは偶然ではない。BLの世界にとらえられた「四人組の冒険」という誰でもわかる「釣り」部分とは別に見てとるべきなのも、例えば、イメージに操られイメージを演じることでしか世界と接触できない二人の女の子(だからこれはイメージ批判の映画だ)が美術室で語り合いキャラクターを演じる長いシーンの、身体をとらえる距離と持続への確信だからだ。たぶんそれが、オフスクリーンの活用(家族は声でしか登場しない)とともに、この作家の作品にいつもあらわれる風にそよぐカーテンとラストのプールの水しぶきの白さを何とも魅惑的なものにしているのだ。

  

オリヴェイラがクローデルの上演をフィルムに"載せる"ためにとった手続きもまたフレームの力を使うことである。ラスト近く、4日目第9場で無敵艦隊撃沈で栄光に陰りの見えるスペイン国王がかつての新大陸の英雄ドン・ロドリーグ(ルイス・ミゲル・シントラ)を始末するためイギリス国王の地位を与えるという「芝居を打つ」船上の宮廷シーンは、それまでよりも多くの画面に細分化されているが、原作者が執筆当時に意図していたらしい船の揺れを使ったスラップスティックな演出を退けてオリヴェイラが選んだのは、後にゴダールとの対談で「フィックスショットの力を教えてくれた」と述べた『ジャンヌ・ダルク裁判』の裁判シーンを思わせる舞台と配置、厳格なフレームとそれを破壊せんとする船のセットの揺れとのせめぎ合い(そこに撮影のリスクが生じる)、オフスクリーンの音の積み重ねである。国王からイギリス統治という偽の提案をされたドン・ロドリーグが新大陸を世界に開放せよとの条件を持ち出すと、画面は国王の舞台の屋根の十字架へとパンし、その外からロドリーグに非難の声を浴びせる大臣たちの声と船揺れの音と太鼓の不気味な打撃音が寄せて返す波のように襲ってくる。オリヴェイラは膨大な台詞の間に無言のロドリーグと国王の顔のクローズアップを挿入するが、それこそが言外に敗残者たる両者の意思を過酷に語っているのである。

それはバロック(1)、演劇と、およそブレッソンとかけ離れた、それどころか敵対すると思われているものを包括する映画であり、さらにまた「上演の映画」として何よりクローデル原作のもうひとつのジャンヌ・ダルク映画を撮ったロッセリーニとも結びつく。ドキュメンタリー?フィクション?そもそも境界の設定が必要なのか・・・隠蔽されたダイナミクスに視線を注ぐなら、本来映画とは何と貪婪なものなのだろう!

  

(1)カルメロ・ベーネと「バロック」については映画評論1970年10月号の吉田喜重「映画と構造主義のあいだ カルメロ・ベーネのカプリチ」がある。なおクローデルの原作を「バロック的世界大演劇」と呼ぶ「繻子の靴」(岩波文庫、上下、渡辺守章訳)訳注と解説は、ブレヒト以前に裏方や仕掛けの露呈を押し進めた点、ジャック・ベッケルの実現しなかった企画『クリストファー・コロンブスの書物』(ここで奇しくもオリヴェイラの最近作とつながる)やクローデル自身の映画を使った演出意図への言及にもかかわらず、オリヴェイラとロッセリーニの映画版について全く触れていないのはある意味見事である。

(2007.12.20)

なお、『繻子の靴』は2020年11月22、26、27、28日に東京で日本初上映された。

(2020.11.28)




©Akasaka Daisuke

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