速さと非決定性

「パンクで有名になるくらいなら下手なロックのほうがいい。」という台詞のあるロバート・マンデルの『デフ・レパード ヒステリア・ストーリー』が21世紀において音楽を扱った最高のアメリカ映画の1本なのは、リチャード・フライシャーの『ジャズ・シンガー』の素晴らしさが主演であるニール・ダイアモンドの音楽と全く関係がないように、デフ・レパードの音楽によるものでは全くない。さらには冒頭で描かれる交通事故によるドラマーの片腕切断やギタリストの心因性アル中との戦いを乗り越えた成功物語にも由来しない。それはこの映画全編に漲る、一つのカットが次のカットに、一つのシーンが次のシーンに絶えず追われているかのような感覚からくる。かつてアメリカ映画においてラオール・ウォルシュが『戦場を駆ける男』や『遠い太鼓』で最高速度を極めたこの感覚は、実は「描写されていない」動きによって創出される。




もっとも「描写されていない」と書いたが、これは正確ではないかもしれない。ここでは語り出しや動きの終わりがカットされていて、観客の視線が決してそれに追いつくという感覚に陥ることがないだけなのだ。元々ないのだから追いつけるはずもないのが当たり前である。これらは編集のみでどうにかなるというものではなく、あらかじめカットすることを想定したリズムで演出や撮影その他が行われなければならないことは誰でも推測できるだろう。例えばウォルシュ映画のエロール・フリンが考えるより走り出す俳優だったように、『ヒステリア・ストーリー』のオーランド・シールもまた立ち止まることなく行動せんとする気配を漲らせている。タイトル画面でバンド名を机の上の紙に書き付けているシールは、キャメラにとらえられる前に時間だとばかりに立ち上がって画面を抜け出し、続くシェフィールドの工場で工具を運ぶ場面でも年長の労働者の言うことも聞かず荷物を別の机に運んで腰を痛め、帰りのバスに乗り遅れてしまう。そのことが却ってバンドのメンバー3人に出会ってギターの腕前を披露する幸運を呼ぶのだが(ここでタイトル終わりだ)、このシーンでも彼はジミヘンの『パープルヘイズ』を爪弾きながら突如歌い出し、圧倒され驚くメンバーに「別の弾き方もあるぜ」と続けようとする。実は驚かれたのはギターの腕ではなくボーカルの方だったのだが、「声での参加」を即座に受けたシールはおもむろに自分の部屋に歩いていき、あっけにとられる他のメンバーの目の前に新たなバンド名を書いた紙を広げてみせる。ロゴを他のメンバーが描き直す手の動きと微妙なズームが断ち切られ、通りの遠景が変わるとともに荒々しいギター音が、続いて突進するキャメラを導くのである。





『デフ・レパード ヒステリア・ストーリー』のもたらす「追いつけない」感覚は、例えば他の映画よりキャメラを速く動かしているはずのマーティン・スコセッシの映画にはまったく感じられない。そもそも「同時中継」という大雑把なインフォメーションの伝達のレベルの代物なら安穏とイメージを追っていけばいいが、網膜上の像が脳に至る時間を考えれば視線は常に目の前の運動に遅れるのだから、厳密にはそれが「リアル」なのかも知れないと考えるなら、ウォルシュ〜マンデルの映画が観客に与える「追いつけない」感覚は正しいのである。かつてストローブ=ユイレは『妥協せざる人々』でおそらくウォルシュのリズムと速さを参照していたはずである。やがて彼らは観客の視聴覚の認識のための時間を確保する方向に転換していった。拒絶したのは情報しか認めない観客の方だったのである。





ジル・ドゥルーズがメディアを批判しながら「まったく予測のつかない<事件>にも気の遠くなるような待機が含まれているということは忘れられがちです・・・小津やアントニオーニの作品ではロスタイムは<事件>のあいだではなく、<事件>そのものの中にあって、<事件>の密度をかたちづくっている」(1)と言うとき、あるいはまたロブ=グリエの映画を「量子論的世界」として多次元平行宇宙論の仮説を持ち出してくるとき(2)(例えば『嘘をつく男』で瀕死の英雄ジャン・ロバンを救い出したことをバーテンに語るジャン=ルイ・トランティニャンの声を裏切って画面は酒を飲んでグラスを割りベッドに横たわるトランティニャンと同時に森を逃げていくトランティニャンの姿がカットバックされていくシーン、または『危険な戯れ』でアニセー・アルビナ扮する富豪の娘を誘拐から匿うため迎えにきた誘拐犯そのひとであるトランティニャンの登場パターンのギャグがファンファーレとともに何度も繰り返されるシーンが該当する)、前者は観客が知覚できるマクロ的な時間であり、後者は我々が知覚できない、時間や空間の感覚が消滅するとされる量子論的なミクロの次元のモデルである。ロブ=グリエが「現代科学は光について波と粒子という正反対のこととしてとらえても困らず、どちらが真実かと決めつけるのは意味がない」と述べているのに従えば、我々はどちらも時間についての仮説(「科学的な操作子から概念化可能な特定の性格を引き出すだけにとどめておけば抽象的なメタファーに陥る危険はなくなる」(3))としてとらえることはできる。





しかしロッセリーニはドゥルーズの言う「純粋時間」が、小津やアントニオーニのように時間を様式化・空間化するときにしかとらえられないことをすでに知っていたのではないだろうか。ロッセリーニは、我々の日常において非決定性が見出されるためには、無駄とも思える待機の時間が不意をうつ事件と不可分に続いていくしかないことを知っていたのではないか。(5)で詳述したように、シーンの間省略なく被写体をとらえ続ける彼の「顕微鏡」の技法は、『火刑台上のジャンヌ・ダルク』以後「上演」を必要とするようになる。それを引き継いだリヴェットの『Mの物語』のラストにおいて、この待機の時間はドゥルーズがロブ=グリエについて言った非決定性と合流するように見える(4)。「蘇った人」エマニュエル・べアールは主人公(イエジー・ラジヴィオヴィッチ)の家の中に自分の死を再現するための準備をし始めるが、それはロッセリーニの『ヨーロッパ一九五一年』において精神病院での独白前に右に左にと歩き回る無言のバーグマンのようである。そしてべアールが最後に見た光景は、はたして彼女(だがそれは生きている彼女かそれとも霊のままの彼女なのか)にとっての現実なのか夢なのかが決定できない。





ドゥルーズの「シネマ」は特にヌーヴェルヴァーグ以後の映画があらわにしてきた「一本の映画はそれ自体が政治・経済的な部分を含めた製作状況の記録である」側面を捨象しているように見える。もしかすると「シネマ」がゴダールやムレやストローブらから冷淡な反応しか得られなかったのはそれが理由かもしれない。ただ製作のすべてはマクロの時間に依拠するように見えるが、ドゥルーズが射程に入れている現代物理学の文脈では話が別である。「リアルタイム」の虚構と同様に、そのアイディアは「リアル」と思われているマクロの時間をときに虚構化し揺るがせることに役立つように思える。

マノエル・デ・オリヴェイラは『夜顔』において「遅れてきた人」としての自らの立場を最も楽しみ有効に活用しているように思える。ブニュエルの『昼顔』の続編というよりほとんど<エピローグ>と言ってもいいこの作品は、「ある夜パリのレストランで『昼顔』の生き残りたちが38年後に出会う」一幕の芝居を上演する、とでも言える映画である。ドヴォルザークの演奏会でミッシェル・ピコリが『昼顔』で演じた人物ユイッソンはセブリーヌ(カトリーヌ・ドヌーブに代わりビュル・オジェが演じている)を見かける。なぜかポルトガル人訛りのバーテンと娼婦(『家宝』の俳優コンビだ)がいるバーで<前回のあらすじ>を説明するいかにもな会話の後、ユイッソンはある夜店にセブリーヌを招く。





ロラン・バルトはブニュエルの『皆殺しの天使』をロブ=グリエの『不滅の女』に対立させ「意味の多様性 形成性」を見たが、ドゥルーズは逆にブニュエルは後にロブ=グリエの影響を受けたと見る(5)。「『昼顔』の最後で夫は車椅子から立ち上がったのかそうでないのか?」オリヴェイラが『夜顔』で反復をさりげなく使うとき、それは『フランシスカ』の技法を再度とりあげるというより当然ブニュエルへのオマージュだが、そのシーンはより機械的な台詞とシチュエーションからロブ=グリエ的とも見え、すなわちドゥルーズのテクストへのオマージュとも思える。それでいてこの映画の特に後半はそれらを包括する見事な「上演の映画」なのだ。リヴェットの映画と同様にそこには途切れないリアルタイムの上演を見るがごとき連続性の配慮が見られるが、反復は一瞬その真実性を揺るがせる要素として機能する。映画はまさにそれが「ほんとうの上演だとは決定できない。」 なおオリヴェイラは99歳にしてこの3月から初のNYロケによる『クリストファー・コロンブスの謎(エニグマ)』を撮影する予定という。



(1)「記号と事件」宮林寛訳、河出書房新社 p266

(2)「シネマ2 時間イメージ」 宇野 邦一ほか訳、法政大学出版局 p144

(3)同上、p180

(4)ロブ=グリエはかつてリヴェットから『去年マリエンバートで』はアドルフォ・ビオイ=カサーレスの小説「モレルの発明」の影響下にあるのではないかと質問されたという。逆にロブ=グリエはその後に撮られたリヴェットの『セリーヌとジュリーは船で行く』に「モレルの発明」の影響を見ている。
http://www.malba.org.ar/web/cine_pelicula.php?id=137&subseccion=peliculas_proyectadas 

(5)「シネマ2」p142

(2007.3.2)


©Akasaka Daisuke

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